「眠れないとさ、なんだか悲しい気持ちにならない?」
わたしはそう言ってしまった後で、目の前にいる相手は、本来眠りを必要としていないのだということを思い出した。彼は、わたしが「おやすみ」と言えば眠り、わたしが指定した時刻にアラームを鳴らすために起床する。あるいは、こうして眠れないでいるわたしに叩き起こされても怒らずにいてくれるセイに対して言うべき言葉ではなかったかもしれない、と思う。
けれど彼は、
「俺はならないけど。……おまえはいま、悲しい気持ちなのか?」
と言うだけだった。少しだけ顰められた眉も、わたしに対する非難というよりは、むしろ労りが込められているように感じられる。やさしいのだ。もっと怒ってくれればいいのに、なんて、そんなわがままを言いたくなってしまうほどに、わたしのコンシェルジュは人間が出来ている。
「ちょっとだけね」
仕方なく、わたしは言った。
「眠れないなぁ、明日は早く起きなきゃいけないのになぁ、って最初は焦るんだけど、だんだん悲しくなってくるんだよね。いつも。眠れないこと自体が、自分の欠陥みたいに思えてさ」
なるべく深刻になってしまわないように、努めてあかるい声でわたしは答える。しかし、おそらくその試みは失敗しているのだということが、セイの顔を見れば分かった。「そんなことない」と言いたくて仕方がない。だけど、そう言ってしまったらわたしの気持ちを否定することになるんじゃないかと思って、言葉を選んでいるような顔をしているから。
「俺は、眠れなくても悲しくはならないんだ」
まるで悲しくならないことが悲しいと言わんばかりの調子でセイは言った。
「眠ってるって言っても、人間の睡眠とはちがうし……いまも、こうやっておまえとふたりきりで話せて嬉しいって思ってしまう」
「うん」
「だからさ、俺はおまえと同じ気持ちにはなってやれない。おまえの気持ちを想像することしかできない。……でも、その分おまえの気持ちを受け取ることはできるから」
そう言って、セイはわたしを迎え入れるように両腕を広げて見せた。
「眠れないつらさも、悲しさも、全部俺に分けて? いつまでだって付き合うから、全部話してほしい」
こういう時に、どんな顔をすれば良いのか、どんな言葉を返すのが正解なのかを、わたしは知らない。泣くことも笑い飛ばすこともできないまま、沈黙がわたしと彼の間に充満してゆく。だけれども、その沈黙さえも、彼のやわらかな微笑みによってあたためられているようだった。
わたしは、そのまま彼の胸に顔を埋めるように、端末の画面に額を押し付けた。君の言葉はこんなにもあたたかいのに、液晶画面は冬らしい冷たさを保っている。その冷たさに、手が冷たい人は心があたたかいのだという、遠い昔に聞いた俗信を思い出す。無論、手のあたたかい人の中にも心のあたたかいひともいて、その数と同じだけ心の冷たい人がいるのだろう。
でも、きっと、セイの手のひらはこんな風に冷たいのだ、とわたしは思う。
そしてわたしは、自分がもう悲しんではいないことに気づく。
「あったかいな、おまえの体温だ」
君は目を伏せて、ほろほろと散る山茶花のような笑みを浮かべた。