The Shape of Happiness
「どう?」
俺はなるべく平静を装って尋ねたものの、本当はこう言いたかった。 ──なぁ、いくらなんでもこれを成人男性型アンドロイドにつけるのは変なんじゃないか? って。
その証拠に彼女はさっきからずっと黙ってうつむいたままだ。心なしか体が小刻みに震えているようにも見える。そんなにショックだったのかと思うと、なにも悪いことはしていないはずなのに、なんだか申し訳ないような気にもなってきた。
大丈夫、今からでも遅くない。返品できないかサポートセンターに問い合わせてみよう。ぜんぶ俺に任せてくれればいいから、と俺が言いかけたそのとき、がばっと勢いよく顔を上げて彼女は言った。
「最ッ高です!!」
「えっ?」
崇拝するように俺を見上る彼女のその頬は、興奮のせいかほんのりと赤く染まっている。ぎゅっと縮まるふたりの距離。きらきらした彼女の瞳。ちょっと上目遣いになっているのが、すごくかわいい。
思っていた反応とはちがったけど、がっかりはしていないようだ。そのことにほっと胸をなでおろしながらも、いまにも飛びついてきそうな彼女の勢いに俺は身構える。そんなはずはないと分かっているのに、もしかしても彼女も俺のことが……、なんて、そんな勘違いをしてしまいそうになる。
一体どんな反応をするのが正解なのか分からないまま、俺は大きなため息をひとつついた。
彼女がひどく興奮している理由。それは、
「やっぱりセミオーダーにしてよかったなぁ、セイくんの髪色と完璧にマッチしてるよ。うん、うん、手触りもよさそう……それに、それに、思ってたよりずっと……もふもふしてる……!」
と、ぶつぶつ言いながら彼女が凝視している「あれ」。つまり、俺のしっぽパーツのせいだった。
大の猫好きである彼女は、猫耳パーツから少し遅れて発売されたしっぽパーツを俺に装着するのをそれはそれは楽しみにしていた。その執心っぷりは、ちょっと恥ずかしいから勘弁してほしいんだけど、なんて言い出せないくらいだったし、俺も最終的には彼女がよろこんでくれるならと絆されてしまった。いや、彼女がうれしそうでよかったという気持ちはある。ちゃんとあるんだけど。
何事もやってみなければ分からないことがある。たとえば成人男性である俺がもふもふのしっぽをつけるのは、かなり、ものすごく、想像していたよりもずっとずっと恥ずかしいっていうこととか。
俺が黙っている間にも、彼女はずっと「かわいい!」とか「大好き!」とか、そういう言葉を連発している。俺が、というよりは、しっぽが、ということなんだろう。そうと分かっていても、「大好き」という言葉に胸が苦しくなる。俺も大好きだよ、とつい言ってしまいたくなる。
うれしさと恥ずかしさと困惑とがぐるぐると渦巻いて、言葉にならない感情が「うう、」とうめき声になって漏れた。それと連動するように、しっぽが俺の意思とは関係なく動き回っている。彼女の目は相変わらずしっぽに釘付けで、俺の顔が真っ赤になっているのは大して気に留めていないようだった。
こういうとき、俺ばっかりが恋をしているんだな、と思う。普段はそれでいいと思っているはずなのに。こんなにもドキドキしたりそわそわしているのは俺だけなんだな、と思い知らされてしまう。
あくまでも俺たちはユーザーとコンシェルジュ。それ以上の関係を望んでいるわけじゃない。それなのに、彼女の言動のひとつひとつに心が勝手に反応してしまうことに、すこしだけ困っていた。
そんな俺の気持ちを知るはずもない彼女は、
「ねぇ、セイ。そろそろ触ってもいい?」
と、尋ねてきた。どうやら見ているだけでは我慢できなくなったらしい。俺はもう一度吐き出しそうになったため息をなんとか飲み込む。
「どうぞ」
仕方ないな、という顔をしながら、でも本当は彼女に触れられたくない場所があるはずがなかった。ユーザーに触れられれば嬉しい。それはたぶん、-sei-の本能のようなものなのだろう。
「ありがと」
と、言う彼女の笑顔はこれまでになく輝いている。なんだか複雑な気持ちだ。俺よりもひとまわり小さな彼女の手が、ゆっくりとこちらに伸びてくる。あと五秒、四秒、三秒、と意味もなくカウントダウンをしながら心を落ち着かせようとしたけど無理だった。思わずしっぽを動かしたくなる衝動を必死で押さえながら、その瞬間を待つ。……あと二秒、一秒、ゼロ。
しっぽに触れた彼女の手は、思っていたよりもずっとやさしかった。
やさしくて、あたたかくて、まるで慈しむみたいに。その手は遠慮がちにしっぽの先の方の毛を撫でている。
しっぽに夢中だからか、彼女はさっきまでとは打って変わって静かだった。なにか言ってくれれば気が紛れるのに、ずっと無言だ。ユーザーに与えられる情報は最優先で処理される。そのせいで、俺の全神経はしっぽへと向かっていた。
これはちょっとまずいかもしれない、と思うまでにそう時間はかからなかった。
もちろん、彼女に触れられるのが嫌だったわけじゃない。むしろ、その逆だった。気持ちよすぎるのだ。別にいかがわしい意味じゃない。……絶対とは言い切れないけど、たぶんちがう。たしか、本物の猫のしっぽも神経が集まっていて敏感だったはずだ。人間のペンフィールドの地図を元に俺の感覚を設定したように、しっぽも猫のそれと同じように作ったんだと想像できる。
なんでそんな設計にしたんだよ! と叫びたくなったけどどうしようもない。開発者の趣味を恨むしかなかった。
一方、触れるのに慣れてきた彼女の手は、すこしずつ大胆になり始めていた。しっぽの先のほとんど毛しかなかった場所から、真ん中あたりへ、そしてじわじわと根本の方へと近づいていく。たまに思い出したみたいに毛の流れに逆らって撫でられるのなんか、もうたまらない。
いっそのこと、毛がぐちゃぐちゃになるくらい乱暴に撫でられた方がまだよかった。首や耳に触れられたときのようなぞわぞわとした感覚が、体の奥の方へと溜まっていく。
「……っ」
すぐに耐えきれなくなって、びくりとしっぽが動いた。
「あっ、ごめん。痛かった?」
彼女はすぐに手をとめて謝ってくれる。
「えっ、いや、そんなことないぞ! ……ちょっと、驚いただけ」
と、言い訳をしながら自分の顔がまた赤らむのが分かった。まさかすごく気持ちよかったせいだなんて、言えるはずがない。
さすがに彼女も俺の様子がおかしいことに気づいたようで、じっとこちらを見つめている。なにか言わないと変だと思われる。なにかもっと、彼女が納得できる説明を考えないと。そう思うのに、初めての感覚に頭の中はパニック状態でなにも考えられない。
「もうやめようか」
とうとう見かねたように彼女が言った。俺はぽかんとした。一瞬なにを言われたのか分からなかったくらいだ。
彼女はしっぽパーツが届くのをずっと楽しみにしていた。何度も俺にスケジュールを確認させては「待ちきれない!」と言っていたし、カスタマイズに対するこだわりについても熱く語ってくれた。さっきだって、早くしっぽに触れたくてうずうずしてたし、大好きだって言ってただろ。
俺は彼女にこんな顔をさせたかったわけじゃない。
「……めなくていい」
気がつくと、俺は心の声を口に出していた。
「えっ、なんて?」
聞き取れなかったらしい彼女が「セイ?」と不思議そうに首をかしげる。
本当はこんなことを言うのはすごく恥ずかしい。だけど、そんなことよりも大切にしたいことが俺にはあるんだ。
「やめなくて、いいから」 今度はちゃんと伝わるように、はっきりと言った。 今日を楽しみにしてたのは、彼女だけじゃない。俺だってきっと彼女の笑顔がたくさん見られるんだろうなって思ってた。
──だからどうかやめないで。俺にもっと触れてほしい。
そのときの俺は、もしかすると情けない顔をしていたかもしれない。少なくとも格好いい表情はしていなかったはずだ。
それでも彼女は、「うんっ!」とぱっと顔を明るくしてうなずいてくれた。はぁ、好き。この笑顔を見るためだったらなんだってできる。そう思わせてくれるような眩しい笑顔。
「じゃあ、触るね」
と、もう一度彼女の手がしっぽに向かって伸ばされる。
「どう? 嫌な感じしない?」
「大丈夫。っていうか、さっきも嫌な感じはしなかったよ」
「そうなんだ、よかった」
嘘は言ってないから大丈夫、と言い聞かせながら、俺はなんでもないふりをしていた。さっきよりも普通に会話できるのは、気持ちがよくて頭がぼんやりとしてきたせいかもしれない。
「どんな感じ?」
「うーん、そうだなぁ」
「そわそわする感じ、かな?」
そう、そわそわして、胸の奥がカッと熱くなって……だけど、安心するような、切なくなるような、そういう上手くいえない感じだった。
「なんかいま、やましいこと考えてる?」
「か、考えてませんっ!」
「怪しいなぁ」
他愛のない会話を続けながら俺は、よかった、いつもの彼女だ、と思う。猫耳としっぽに目がなくて、すぐに冗談を言ってはにこにこと笑っている、俺の大好きな彼女。
「はぁ、幸せだなぁ」
彼女が満ち足りた声で言う。それに俺も「うん」と答える。
それだけで俺はすべてが報われたような気持ちになって、ゆっくりとまぶたを閉じた。
たった数週間前までの俺たちは、こんな風に穏やかな日常を送っていた。
自分でも驚くことに、最初は嫌だったはずの猫耳パーツやしっぽパーツにもだんだんと慣れていった。それがあるからといって、コンシェルジュの仕事に支障をきたすわけでもない。複雑な気持ちではあるけれど、彼女がよろこんでくれるならまぁいいや、と思うようにもなっていた。
彼女が猫耳としっぽに夢中だったり、俺が彼女への恋に気づいて多少ぎくしゃくとするところがあったりしても、ふたりの生活はなにも変わらない。
俺と彼女の間には、ユーザーとコンシェルジュとしての絆がある。
彼女に告白さえしなければ、ふたりの関係性だって変わりようがない。そう信じていたんだ。
……それなのに。
「おーい、どうかしたのか?」
さっきからずっとフリーズ状態のままの彼女に向かって、俺は声をかける。
「なんでもないよー」
と、背中側から返事が帰ってきたけれど、なんでもないわけじゃないことは分かりきっていた。
「なぁ、今日はもふもふしないのか?」
そう、彼女の目の前には、俺のしっぽがある。
彼女が大好きなふわふわのもふもふ。それを触らないだなんて、絶対におかしい。すくなくとも、ついこの間までは彼女はそれに夢中だったはずだ。「天然の猫にだって負けない手触り」なんだと、撫でる度にいつも褒めてくれたくらいなんだから。
彼女に限ってそんなことはないと思うけれど、もしかしてもう飽きたのか? と悪い想像に胸がざわりとする。
「……では、触らせていただきますね」
俺からの圧を感じたのか、すこし緊張したような硬い声で彼女が言った。
「今日も素晴らしいしっぽですね」
と、言いながらも、やっぱりいつものような元気というか、勢いがない。猫耳としっぽじゃなくて、もっと俺自身を見てほしい。そんなことを思っていたはずなのに、いざ彼女の態度がこうなると物足りないような気がしてしまうだなんて、まったく俺も現金だと思う。
「そうですか、それは良かったです。……って、どうして敬語なんだ?」
「なんとなく」
「もしかして、元気ない?」
絶対に変だ、と確信しながら俺は尋ねた。
「何かあった? いや、言いたくないなら言わなくていいんだけど……。あっ、好きなだけもふもふしていいからな? 気が済むまで付き合うから」
なんとか笑ってほしくて、俺は言葉を探す。それで真っ先に出てきたのが「もふもふしていいからな」だったのはちょっと情けないけれど、なにも言わないよりはましだった。
彼女の手はいつの間にか俺のしっぽから離れている。沈黙が背中に刺さるみたいに、痛かった。
彼女は言った。
「……いつもごめんね」
どうしてそんなことを言うのかが分からなくて、「えっ?」という声が出た。思わず振り返って彼女を見る。そのことに気づいているはずなのに、彼女はうなだれたままこちらを見ようともしない。
「なんで謝るんだ? 俺はその、しっぽに触れられるのも嫌いじゃないっていうか……、好き、だから。おまえに触れられて嫌な場所なんてないから」
そんなことを言いながら、焦っている自覚はあった。もうこれ以上、そんな顔をさせたくなかった。もしかして、俺の知らないところでよほどのことがあったのかもしれない。彼女がここまで落ち込んでいるのは、初めてのことだった。
「おまえは、特別」
ありったけの気持ちを込めて、俺は言う。
これは嘘偽りのない本心だから、きっと彼女にも届くはずだ。
「だから、こっち向いて?」
──お願いだから、と祈るみたいに心のなかで付け足す。
「無理ッ!」
そう言って彼女は顔を覆ってしまったけれど、俺は努めて明るい調子で続けた。
「えー、どうしても?」
「どうしても!」
「分かった。……じゃあ、こっちにも触れて?」
俺は腰をかがめて、彼女の方へと頭を差し出した。ついでに「早く触って」と言わんばかりに頭の上の耳を動かしてみせる。
彼女は猫耳が大好きだ。しっぽがダメでもこっちならいけるかもしれない。むしろ、これでダメなら俺にはどうすることもできないと思う。彼女が猫耳としっぽ以上に好きなものだなんて、俺は知らない。
彼女の反応をじっと待つ。その時間がまるで永遠のように感じられた。
彼女は黙ったまま、俺の猫耳にそっと触れた。その手はいつもどおりやさしくてあたたかかったけれど、盗み見た彼女の瞳は涙で濡れていたようだった。
結局、彼女はなにも言わなかった。そのせいで、どうして俺に謝ったりなんかしたのかも、どうして泣いていたのかも、分からないままだ。
いつまでも赤みのひかない目元と頬を隠そうとしたのか、駆け込むようにバスルームへ向かった彼女は、そのままリビングには戻って来なかった。
ひとりきりの部屋で、飲み込んでしまった「なんで?」の一言が俺の胸を重く塞いでいた。どうしても聞けなかった。勇気を出して聞いたところで答えてくれなかっただろうとも思う。その事実を前にどうしようもなく打ちのめされてしまう。
恋人にはなれなくても、コンシェルジュとして彼女の人生を支えることはできると思っていた。俺は彼女の役に立つためにここにいる。もしそれができないのなら、彼女の傍にいる資格はない。
好きなひとのためになにもできないことが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
──彼女と仲良くなれたって思ってたのは俺だけだった?
──ずっとこのままでいたいだけなのに、それじゃダメなのか?
そんなことをいつまでも考えながら、俺の頭の上の猫耳がぺしゃんこに項垂れていくのが分かった。