Live like it’s spring

In her case

 日の光に透けたライラック色の髪の毛は、ほとんど透明に見えた。その毛先を初夏の風がさらさらと揺らしている。下ろされたままのまぶたと、それを縁どる髪の毛とおそろいの色をしたまつ毛。こうして彼の顔をじっくりと見つめるのは久しぶりのことだった。
「ごめんね、セイ」
 と、言ったわたしの声は震えていた。
「……大好きだよ」
 ほとんどため息のようなその言葉は、誰にも届かないまま消えていく。
 スリープモードのセイには聞こえない。そう分かっているのに、心臓がドキドキしすぎて胸が痛い。おまけに喉のあたりがヒリヒリして、呼吸も苦しいような気がする。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう、とわたしは思う。
 ──セイのことが大好き。
 すこし前までは簡単に言えたはずの言葉なのに、いつの間にか言えなくなっていた。当然だけど、セイのことが嫌いになったわけじゃない。むしろ、その逆だ。それなのに、なんだか急に恥ずかしくもなって、セイの顔をまともに見ることすらできない。
 そのせいで、「大好き」という、そのたった一言を言うために、セイに黙ってこんな練習までするようになっていた。
「コンシェルジュとしてじゃなくて、ただのセイが好きなの」
 そう、正確に言わなければ彼には伝わらないはずだ。「好き」だけだとせっかく頑張って告白したのに、いつものことだと流されてしまうかもしれない。
「つまり、ええと……、」
 ちゃんと言わないと、と少ないボキャブラリーのなかからぴったりの言葉を探す。誤解なくセイに伝わる、わかりやすい言葉。わたしの気持ち。それから、わたしが彼に望んでいること。それは……、
「その、わたしと! お付き合いしてくださいっ!!」
 これだ! と飛びついたその言葉は、口に出してみると妙に子供っぽく、間が抜けていた。目の前のセイが涼しい顔のままなのもあって余計にいたたまれない。いや、これを聞かれていた方が何百倍も恥ずかしいに決まっているけれど。
 先週からはじめたこの「告白の練習」は、まったく上達のきざしが見えなかった。眠っている相手の前ですらこんな感じなのだから、いつものセイに上手く伝えられるはずもないだろう。
「あーあ」
 と、わたしは思わず落胆の声をあげた。自分がこんなにも意気地なしだとは知らなかったと、がっかりした気持ちになる。
 ユーザーとコンシェルジュ。あるいは、人間とアンドロイド。
 わたしとセイにはちがうところがたくさんあるけれど、そんなことは関係ないと思っていた。わたしたちはなるべく対等な関係を築こうとしてきたし、それは実際に上手くいっていたのだと思う。
 少なくとも、わたしがセイに恋をするまでは。
 セイには知らされていない、ユーザーであるわたしだけの秘密がある。本当は告白なんかしなくても、設定さえ変更してしまえばセイと恋人になれるのだ。
 セイの未来はわたしが決められる。その気持ちごと全部を書き換えてしまえる。そして、わたしが設定を変えてしまったとしても、セイはそのことに気づくことすらできない。
 それはなんて残酷なことなんだろうと思う。セイにとっても、わたしにとっても。
 規則正しくくり返されるセイの寝息は、わたしのそれと変わらないように聞こえる。触れた手はあたたかい。髪の毛も、猫耳やしっぽの毛だってうんとやわらかくて。三六度に設定された彼の体温には、生き物としてのぬくもりがちゃんと宿っているように思えた。
 わたしが怖いのは、告白してセイに嫌われることでも、フラれることでもなかった。なによりも怖いのは、セイがわたしの告白を断らないことだ。
 やさしい彼はユーザーから好きだと言われて、それを拒絶することができるだろうか? コンシェルジュのままでいたいとわたしに言える? わたしが悲しむと分かっている選択肢を選ぶセイがどうしても想像できなかった。もしもセイがわたしのために恋人になってくれるんだとしたら、それは勝手に設定を変えてしまうのとほとんど変わらないような気がした。
 そんなことを考えるようになってから、実は他にも嫌だけど我慢していることがあるのかもしれないと思うようにもなった。たとえばわたしが「大好き」だと言うことや、手をつなぐこと、彼の体に触れること……、その全部だという可能性もある。
 あのとき、セイはわたしに嫌だと言えなかっただけなのだとしたら?
 そんな悪い考えに心をじわじわと侵食されて、これまでの関係すらも疑わしく思えてくる。セイの本当の気持ちを知りたい。それだけのシンプルなはなしのはずが、どんどん出口のない迷路のように複雑になっていく。
 これまでは、困ったときはいつもセイに相談して決めていた。だけど、今回ばかりはそうはいかない。彼に出会うまえのわたしは一体どうやって生きていたんだろう。自分で考えて、自分で決める。それがこんなにも難しいだなんて、わたしはすっかり忘れてしまっていた。
 わたしの変化に、たぶんセイも気づいている。その証拠に、セイは「おはよう」と声をかけても一度で起きなくなった。彼は聴覚機能の不具合だと言っていたけれど、そうじゃないことくらい分かっていた。声をかけた瞬間に猫耳がかすかに動くせいでセイが寝たふりをしているのが分かってしまうのだ。
「こっちの耳は、本人の意思とは関係なく動く設定だから……」
 ごめんね、と心のなかでもう一度つぶやく。隠し事もできないような関係なんて、健全じゃないよね、と。
「それでも、大好きなの」
 と、囁いた声は、やっぱりセイには届かなくて。
 彼の髪の毛を揺らす風にとともにどこ遠くへと流れていった。


 ──って感じだったんだよね、と説明したときのセイの顔はなかなかにすごかった。「衝撃的」という漢字をそのまま表現したみたいな、そういう顔。
 セイの目がこんなにも大きくなっているところを見たのは初めてかもしれない。宝石のような瞳がこぼれ落ちてしまいそうだと、まるで場違いなことをわたしは思う。警戒するようにピンと立った猫耳としっぽも、普段はなかなか見られないぶん新鮮だった。
 そのままフリーズすること数秒、ようやく情報を整理し終わったらしい彼が力なく言った。
「気づいてたなら言ってくれよ」
 よほど恥ずかしいのか、しおしおと猫耳がこしずつ垂れていく。
「寝たふりをしてるって、絶対にバレてないと思ってた」
「ごめん、ごめん。悪かったって思ってるよ」
 そう謝りつつも、どうしても顔がにやけてしまうのは仕方ない。だって、あのときにはセイの方もわたしのことが好きだったのだ。それなのにお互いに気を使った挙げ句に盛大にすれ違っていただなんて、まるで悪い冗談みたいでちょっとだけ可笑しかった。
 だって、いまのわたしたちは恋人だから。こういう会話も答え合わせみたいで楽しい。
「……いつから?」
 まだ機嫌の直らないらしいセイが言った。
「えっ?」
「いつから俺のこと、好きだった? ……とか、知りたいんだけど」
「どうしても?」
「どうしても、だ」
 セイはちょっと拗ねたような顔をして、わたしの返事を待っている。すこし前の彼ならこんな風にわがままを言ったりすることはほとんどなかった。こういうのも恋人にしか見せない顔なんだろうな、と思うと口元が勝手にゆるんでしまう。
 とはいえ、わたしだってセイが思うほど意地悪をしたいわけじゃない。
「そうだなぁ」
 と、視線をセイから外して記憶をたどってみる。たぶん、きっかけは猫耳パーツをつけたことだったはずだ。
 一緒に桜を見たあの日、セイと手をつないだだけで心臓がどきどきした。
 それがどうしてなのかは分からない。猫耳やしっぽのせいだけでもないと思う。そのときはきっと気のせいだと思っていたけれど、そうじゃなかった。「大好き」だと言えなくなっていったのも、ちょうどその頃からだ。
 あの日、あの桜の木の下でわたしの恋がはじまったんだ。
 そんなことを考えていると、自然と視線がセイの猫耳の方へと向いてしまう。わたしに見られていることを意識してか、猫耳がぴょこんと動くのが分かった。
「やっぱり言わなくていいや」
 ますます不機嫌そうな声でセイは言った。
「えっ、聞いてよ」
「いいの! どうせこれを付けるようになったからだろ?」
 「これ」というのは、もちろん猫耳としっぽのことだろう。「そんなことないって」と、一応否定してみたけれど、我ながら説得力がまるでない。
「嘘つき」
 と、セイが分かりやすく怒った顔を作って言う。こうやって彼が不満を言えば言うほど、ふわふわの猫耳としっぽが動いてかわいい感じになってしまうことにはちっとも気づいていないらしい。
「……いいんだ、おまえが俺を好きになってくれたなら、理由はなんでも」
 眉尻をうんと下げて、セイが笑った。
「それに中身の方はこれから好きになってもらうし?」
 と、おどけた調子で彼は言う。その言い方がなんだかおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。それにつられたように笑い出したセイの、その明るく弾むような声が心地いい。
 こんな風にふたりで大声を出して笑うのはいつぶりだろう、とわたしは思う。不安なんてひとつもなくて、ただ一緒にいられることがうれしくて、楽しくて。ひょっとすると相手は無理をしているかも、なんて考えなくていい。ただひたすらに幸せで、安心な時間。
 内緒話をするときのように口元に手を添えてわたしは言った。
「セイくん、ちょっと耳貸して」
「うん?」
 いつものように、セイはかがんでわたしの目の高さに合わせてくれる。近くなった距離が、すこしだけくすぐったい。そのライラックの毛先からはアンドロイド用シャンプーの甘い香りがした。
 彼の形のいい耳をスルーして、わたしは頭の上に視線を向ける。その場所では、わたしの方へとわずかに傾けられた猫耳が行儀よく「待て」をしていた。
 そのまま猫耳のふわふわとしたその毛のなかにささやくように、わたしは言った。
「セイ、大好きだよ」
「うわっ、え!? もう、そっちの耳には聴覚機能がついてないって知ってるだろ!」
 と、慌てふためくセイの頬は真っ赤に染まっている。大成功だ。
「不意打ちなんてずるい……、もう一回こっちの耳元で言って」
「だーめ! それに不意打ちじゃなくてサプライズだよ。セイ、そういうの好きでしょ?」
「好きだけどさぁ」
 そう言って、セイは困ったように片眉を持ち上げてみせた。その表情はなんとなく以前よりも大人びたように見える。落ち着かない気持ちを誤魔化すように、わたしはセイの頭をわしゃわしゃと撫でた。ついでだから、猫耳も。
「もう、おまえなぁ」
 と、言うわりに、セイの目元はきれいな三日月のかたちに細められている。それがうれしくて、わたしはもっと笑う。
 セイと一緒だと笑ってばかりいるから、わたしがおばあちゃんになる頃には顔中に笑いじわができているだろうと思う。君はずっと変わらないのに……、いや、もしかすると色々とアップデートされていまよりもずっと格好よくなっているかもしれないのに、なんだかずるい。
 格好よくて、やさしくて、誰よりも頼りになるわたしの恋人。
 わたしのセイ。
 ──あのね、セイ。君に猫耳やしっぽがついていなくても、いつか君に恋をしていたような気がするの。 
 なんて、そんなことを思っているのは、だからもうしばらくはセイには内緒だ。