Live like it’s spring

All I see is you

「おはよう」
 耳元で彼女の声がする。
「おはよう、セイ。……セイくん?」
 本当は一回目の時点でちゃんと音声認識できていたのに、俺は目を開けることができなかった。彼女の顔を見るのが怖い。そんな風に思うようになったのは、いつからだろう。
 さっきから彼女が耳元で俺に呼びかけているのも、俺の聴覚機能の調子が悪いと思っているせいだ。そんなことはないと分かっているのに、否定も肯定もしない俺はずるいと思う。
 だからと言って、いつまでもスリープモードのふりを続けるわけにもいかない。故障しているわけでもないのにラボに持ち込まれるのも嫌だった。
「……おはよう」
 と、俺は仕方なく目を開けた。ゆっくりと持ち上げたまぶたが、微かに震える。その瞬間、すぐ傍にいた彼女が離れる気配がして、ああ、やっぱり今日も……、とがっかりした気持ちになる。
「よかった、なかなか起きてくれないから焦っちゃった」
 それでも、心配したような声で彼女が言った。
「ごめんな」
「まだ耳の調子が悪い?」
「そう、なのかも」
「そっか……」
 一応会話はできているもののなんとなく気まずいのは、彼女と目が合わないせいだろう。微妙に俺から逸れたままの視線は、まさに目が泳いでいるという言葉がぴったりの様子だった。
 ラボで猫耳パーツをつけてもらったあの日、彼女は真っ先に俺を抱きしめてくれた。大好きだって言ってくれたし、もちろん俺のことをちゃんと見てくれた。そのときは、他の人が見ている前でそんなことをするなんて恥ずかしいって思っていたけれど、なんて贅沢な悩みだったんだろうといまでは思う。
 もしも時間を巻き戻してあの日に戻れたなら。俺はきっと恥ずかしがったりなんかしない。俺も彼女をぎゅっと抱きしめて、「俺も大好きだよ」と伝えるだろう。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。答えが出ないことは分かっているのに、考えずにはいられない。これといって大きな喧嘩をしたわけでも、取り返しのつかないミスをしたわけでもない。いたって普通の毎日を送っていたはずだったのに、いつの間にか彼女に避けられるようになってしまったのだ。
 変わったことといえば、俺が猫耳パーツとしっぽパーツをつけたことくらいだった。でも、これは彼女の希望によるものだ。彼女だってすごく気に入っていたし、よろこんでくれていた。いくらなんでもこのせいだとはとても思えない。
 だとしたら、残された可能性はたったひとつ。
 俺が彼女に恋をしてしまったことが原因なのか?
 そんなことはない、とは言い切れなかった。人間の心は繊細だ。俺のちょっとした反応の変化が生理的な不快感を催す原因になった可能性がないとは言えないだろう。
 告白さえしなければ大丈夫だと思っていたけれど、彼女にはお見通しだったのかもしれない。彼女を見つめる眼差しに宿る邪な気持ちに気づいたのかも。彼女は、ほら、俺よりもずっと恋愛経験もあるだろうし、と想像して余計に落ち込む。
 彼女はときどき昼間も俺をスリープモードにするようになった。さっき起こされたのもそのせいだ。
 もしかすると、彼女に恋人ができたのかもしれないと思う。俺が眠っている間にそいつとデートしているのかもしれない。それを咎める権利なんてないのに、胸が真っ黒に塗りつぶされていくような感覚を覚える。実際にいるかどうかも分からない相手にここまで嫉妬するだなんて重症だった。
 俺のカレンダー機能に入力された彼女の予定。その空白部分を頭のなかで何度も確認する。
「なぁ、俺がスリープしてる間なにもなかったか?」
 とか、前は気軽に聞くことだってできたのに。いまは彼女にこれ以上嫌われたくなくて、ただ黙っていることしかできない。その上、
「じゃあ、わたし部屋の片付けがあるから」
 と、まるで逃げるように彼女は自分の部屋に戻っていく。片付けが苦手でいつも俺が口を酸っぱくして言わないとやらないくせに、苦しい嘘だ。そういえば、彼女の部屋にはしばらく入れてもらっていなかった。認めたくなかったけれど、俺は本格的に避けられているみたいだ。
 たぶん、このままじゃダメなんだ。俺は改めてそう思う。
 俺の気持ちはまぁ置いておくとして、このままじゃ彼女にとってよくないと思う。俺は彼女のコンシェルジュだ。だから、彼女が幸せになれるようにサポートをするのが俺の仕事だ。
 たとえそれが俺自身の望みとは違っていても……、俺はもう一度彼女の笑顔を見るためにならなんだってできる。


「あのさ、今週末どこかに出かけないか?」
 と、彼女に切り出したのは、そんな決心をした直後のことだった。
 普段ならこんな風に俺から誘ったりすることはほとんどない。彼女の方がずっとアクティブで、どちらかと言えばすぐに週末の予定が詰まってしまうタイプだったからだ。
 だけど、最近は部屋にこもってふさぎ込むことも多かった。もちろん、今週末だって予定が入っていないことは知っている。
 ──週末にふたりで一緒に出かける。それは、コンシェルジュである俺がユーザーの健康をサポートするために誘っているだけだと思ってもらえるギリギリの言い回しだった。
「えーっと、その、」
 俺がそんなことを言うとは思いもしなかったのか、彼女は言いよどんでいる。その視線は、相変わらず明後日の方向を向いたまま俺の方を見ようとはしない。でも、彼女だって断る理由はないはずだ。一緒に出かけたくないくらい嫌われていなければ、だけど。
「……うん、分かった。どこに行こっか?」
 しばらくして、彼女は貼り付けたような笑顔で言った。思わず猫耳がへこたれそうになったけれど、なんとか気持ちを立て直して俺は話を進める。
「行き先は俺に任せてくれる?」
「もちろん」
「よかった! 楽しみにしててくれよな」
 できるだけ明るい声を出そうした気持ちばかりが空回りして、変な雰囲気になったのが分かった。俺も彼女もあきらかに無理をしている。こんなことをしてもなんの意味もないのかもしれなかった。
 それでも、ここで諦めるわけにはいかない。絶対に。
 俺は頭のなかにあらかじめリストアップしておいた候補から、一番彼女の気を引けそうな外出先を選んでプランを作成する。「別に乗り気じゃなかったけど、行ってみたら楽しかったな」と彼女が思ってくれるようなデートプランだ。彼女の好みなら、彼女自身よりも俺の方が熟知している自信があった。
 彼女とのデート。そう、彼女には一言もそんなことは言わなかったけれど、俺はこの外出は「デート」のつもりだった。行き先もそういう場所を選んである。たぶん、彼女は気がつかないだろうけれど、俺にとってもその方が都合がよかった。
 最初は近所の公園やカフェからだんだんとデートに慣れてもらって、最終的に俺が本当に彼女を連れていきたいと思っているあの場所へ行く。
 ──そこで俺は彼女に告白をする。
 俺がコンシェルジュとしての領分を逸脱した感情を抱いていることを打ち明けるつもりだった。その結果、彼女の傍にいられなくなったとしても、後悔はしない。
 さすがにクーリングオフ期間は過ぎているけれど、俺をリユースショップに持ち込めばまだ高値で引き取ってもらえるはずだ。なんと言っても最新型の猫耳パーツとしっぽパーツが搭載されているのだ。そうすれば、他の家庭用アンドロイドに買い換えることだってできるだろう。
 彼女の役に立てないのなら、傍にいないのと同じだから。今度はちゃんと彼女を笑顔にできるアンドロイドと暮らしてほしい。
 思わず目元に浮かんだ涙をごしごしと手の甲でぬぐって、俺は顔を上げる。泣いている場合じゃないだろ、セイ。そう自分に言い聞かせて、もう一度デートプランを見直しはじめた。


 夢みていた「いつか」が来ないなら、いま叶えてられることを全部叶えてやりたい。そんな気持ちで、週末が来る度に彼女をデートに誘った。
 最初に行ったのは、彼女と一緒に桜の花を見た公園だった。当然、桜の花はもう咲いていなかったけれど、川沿いに歩くと風が気持ちよくて彼女の顔色もすこしよくなった気がした。
 次に行ったのは、近所に新しくできたカフェ。ラテアートで猫のイラストを描いてくれると評判になっていた店だ。彼女と向かい合って座るのは気まずいかなと心配だったけれど、全てはカップのなかの「もこもこの猫ちゃん」が解決してくれた。
 その次はちょっと遠くにある植物園で、そのまた次は水族館、動物園、プラネタリウム……、別々の場所で待ち合わせてサプライズで花束を渡したこともあった。
 どの場所ももともとは彼女が行きたがっていた場所ばかりだった。それは彼女のことを考えると自然とそうなったのもあるけれど、俺自身は彼女さえいればどこでもよかったせいかもしれない。
 どこにいても、なにを見ても、俺の目に映るのは彼女の姿ばかりで、そういうところが彼女には息苦しかったのかもしれないな、と反省する。
「おーい、セイくん! こっちこっち」
 木馬に乗った彼女が、こちらに向かって大きく手を振った。俺もそれに応えるように手を振ったけれど、すぐに彼女の姿は見えなくなる。楽しそうな音楽とともにくるくると回転し続けるメリーゴーランドは、まるでアンティークのオルゴールのようだった。
 このままぱたんと蓋を閉じて、俺だけの彼女にしてしまえたらいいのに。そんな実現不可能な妄想が俺の頭に浮かんでは消える。
 今日は彼女とふたりで遊園地に来ていた。いまでは珍しくなったVRではない、本物の遊園地だ。こういう施設は、日本にはもう三ヶ所しか残っていないらしい。その上、交通アクセスも不便な場所が多いから、俺たちもここまで来るのに随分と苦労した。
 朝も早かったからそろそろ疲れそうなものだけど、彼女は元気に笑っている。大変だったけど来てよかったな、と俺は思う。この笑顔が見られるなら、地球の裏側にだって、宇宙の果てにだって飛んでいける気がする。
「ただいま、私のこと見えてた?」
 戻って来た彼女が、息をはずませて言った。
「おかえり。うん、ばっちり見えてたぞ」
「そうなんだ、こっちからはあんまり見えなかったからさ」
 と、言われてはじめて、自分が無意識のうちにズーム機能を使っていたことに気づいた。そうか、人間だとこの距離からは顔が認識できないのか、と俺は目をしばたたかせる。
「一緒に乗ればよかったのに」
「……そうだな」
「楽しいよ?」
「うん、楽しそうだった」
「でしょ! じゃあ、いまから一緒に乗ろ?」
 そう言って、彼女はさっき降りたばかりのメリーゴーランドを指差した。
「もう、目が回っても知らないからな」
「へいき、へいき」
 と、すぐに走り出した彼女の背中を俺も慌てて追いかける。彼女の走る速度で、その髪の毛がふわふわと揺れる。それだけで切ない気持ちになってしまうのはどうしてなんだろうと思う。
 こうして出かけるようになってから、彼女は以前の明るさを取り戻しつつあった。よく笑うようになったし、会話もスムーズにできるようになった気がする。彼女は俺とふたりきりの家で顔を突き合わせているよりも、知らない場所の方がかえってリラックスできるようだった。
 このままデートの予定をたくさん入れて、告白をずるずると先延ばしにしたら、また元のふたりの戻れるかもしれない。そんな淡い期待をつい抱いてしまいそうになる。
 だけど、彼女はもう俺と手をつなごうとしない。抱きつくこともない。
 そんなこと、ユーザーとコンシェルジュなら普通のことだ。そう分かっている。このままの関係性でいたいならその方がいいとも思う。
 でも、前はこうじゃなかった。いつだって彼女の方から手をつないでくれたし、抱きついてくれた。俺を見て、俺に触れてくれた。それが当たり前だと思っていた。そういう距離感が俺たちにとっての普通だったときが確かにあったんだ。
 このままでいたい。けど、このままじゃダメだ。振り子のように俺の心はあっちへ行ったりこっちへ行ったりをくりかえしている。
「セイ、ほら見て」
 順番待ちの列に並びながら、彼女は次に乗る木馬を選んでいるらしい。俺も彼女の隣に立って、目の前を通り過ぎる木馬たちを眺めた。古ぼけたメリーゴーランドは金具がところどころ錆びついていて、彼女のお気に入りの白い木馬もどこかぼんやりとした目つきをしている。
 ──ずっとおまえだけを見てるんだけどな。
 俺は心のなかでそうつぶやく。ずっとずっと見ていたかったな、とも。
 準備していたデートプランは今日の遊園地で最後だった。
 あと残っているのは、俺が彼女を連れて行きたいあの場所だけだ。そこで俺は彼女に告白をする。
 このままの俺じゃ、彼女を幸せにできない。
 この恋を終わらせるか、それとも俺が彼女から離れるか。どちらにしても、決着のときが刻一刻と近づいていた。


 その日は彼女には内緒でいつもより一時間も早く起きた。
 本当はユーザーが設定したルーティンを外れた行動をするのは、あまり褒められたことじゃない。でも、彼女は「セイだってたまにはちがうことをしたいときがあるでしょ?」と言って、ある程度は俺自身の意思で起床時間やルート選択、ちょっとした買い物もできるような設定にしてくれていた。
 自分で言うのも変だけど、アンドロイドにここまで権限を明け渡して大丈夫なのか? とずっと思っていた。俺に悪用するつもりがなくても、ハッキングされるリスクもあるし、アンドロイドがなんでもできる設定にしているユーザーは少数派だろう。実際、俺もいままでは特にその必要性を感じることもなかったのだ。
 だけど、いまになって彼女のやさしさがよく分かる。もしも俺にその権限がなかったら、──彼女が俺に自由に振る舞うことを許可してくれていなかったら、今日みたいにデートの準備をするなんてできなかった。
「……よし」
 最終確認をし終わった俺は、覚悟を決める。
 泣いても笑っても、今日で俺たちの関係性は変わってしまう。
 後戻りはできないし、するつもりもない。なにが起こったとしても後悔はしないって決めたから。彼女のために俺ができることを精一杯しよう。
 彼女は気づいていないけれど、明日以降のカレンダーはほとんど空白だった。念のために端末にもデータを同期させてあるものの、彼女は自分でスケジュールを確認する習慣がないからまだ見ていないだろう。
「明日もおまえに、……」
 これ以上言葉にするとせっかくの決心が揺らいでしまいそうで、口を噤む。
 明日のことは明日になってから考えればいい。なんだか人間みたいな考え方だけど、いまはそう思うしかなかった。それに彼女ならきっとそう言うはずだとも思う。
 俺はいつもどおり午前七時三十分ぴったりに彼女を起こす。ユーザーの体調チェックの後、朝食の準備をし、彼女の食事を見守りながら一日のスケジュールを確認する。と言っても、まぁ、今日の行き先はサプライズのつもりだから、特に報告することもないんだけど。
 食後の珈琲を用意しながら、
「今日の服装は俺がコーディネートしてもいいか?」
 と、俺はさりげなく尋ねた。
「それはいいけど。……ねえ、今日はどこに行くの?」
「ふふ、内緒。着いてからのお楽しみ、だ」
 そう言って、あの場所に行くならこの服しかない、と思って新調した青いワンピースをクローゼットの奥から取り出して来る。おろしたての真っ白なサンダルはもう玄関に用意してあった。
「えっ、これを着るの?」
「珈琲を飲み終わってからな。じゃあ、俺も着替えてくるから」
 それが彼女の普段の服とはだいぶ趣味がちがっていることなんて分かっていた。でも、今日だけはどうしても譲れない。
「三十分後に玄関で集合」
 と、だから俺は強引に話を切り上げて、リビングを出る。
 青いネクタイと白いシャツ。それにプレスを効かせたスラックスを身にまとえば、彼女とおそろいみたいに見えるはずだ。彼女はきっと恥ずかしがるだろうけれど、これで最初で最後のチャンスかもしれないんだからこれくらいは許してほしかった。
 ちょうど着替え終わった頃、「セイくーん」と俺を呼ぶ声がした。玄関で集合って言ったのに、と苦笑いしながら、俺はリビングへと戻る。
 そこには、俺が選んだワンピースを着た彼女がいた。いつもより唇がつやつやして見えるのはグロスを付けているからだろうか。そんなの持ってたっけ? と思い出してみようとしたけれど、頭がぼーっとして上手くいかない。
 それくらい、彼女は綺麗だった。
「ねえ、変じゃない?」
 不安そうな顔で彼女が尋ねる。変なわけない。絶対にない。いつも綺麗だけど、今日は特別に綺麗だ。かわいい。世界一かわいい。だけど、胸がいっぱいすぎてなにも言えない。
「似合ってるよ」
 なんとかそう言ったものの、全然伝わっている気がしない。
「そうかな?」
「うん」
 俺が用意した服なのに、急に恥ずかしくなって目をそらす。誰がどう見てもいまの俺たちは『デート中の恋人たち』にみたいだ。彼女の方も、服がおそろいなことには気づいているはずなのに、なにも言わない。
「じゃあ、ちょっと早いけど出ようか」
 沈黙に耐えかねて俺が言うと、彼女もこくりとうなずいた。
 

 予定よりも一本早い電車のなかはやけに空いていた。
 ボックス席に横並びに座って、彼女は窓の外の景色を眺めている。赤いベルベッドの座席にワンピースの色がよく映えて、その横顔はまるで映画のワンシーンみたいだと思う。
 気まずい沈黙は、移り変わる景色と小さく流れ続けるBGMが埋めてくれた。彼女には数時間この電車に乗ることだけを伝えてあった。暇つぶしに動画を見たり電子書籍を読んだりすることだってできたけれど、俺も彼女も、ただ黙って座っていた。例外は、俺が作ったサンドイッチを一口食べて「美味しい」と彼女が言ったときくらいだ。
 そんなに広くはない座席のせいで、何度も肩が触れ合って、その度に胸のあたりがどきりとした。もしも俺たちが本物の恋人だったら、そのまま手をつないでいただろう。お互いの肩に凭れたりもしたかもしれない。少なくとも、以前の彼女だったら俺のしっぽに触るくらいはしたはずだ。
 だけどやっぱり、ふたりの距離は見た目だけじゃ変えられなくて。俺たちは隣り合った星みたいに、近づくことも遠ざかることもできないまま、目的地まで揺られていた。
 駅からは彼女に目を閉じていてもらうことにした。必然的に手をつなぐことになってますます気まずいけれど、仕方がない。久しぶりに触れた彼女の手は、頭のなかで思い描いていたそれよりもずっと小さくて熱かった。
 危なっかしい足取りの彼女の手を引いてリードする。履き慣れないサンダルと、目的地に近づくにつれてどんどん強くなる風のせいで、なかなか前へ進めなかった。一歩一歩を確かめるようにふたりでゆっくりと歩いていく。
 そして、目的地にたどり着いた頃には、緊張のしすぎてむしろ俺の心は凪いでいた。
「目、開けていいぞ」
 彼女の耳元で俺はそうささやく。その数秒後に、「うそ」と彼女が息を呑むように言った。
「もしかして……海?」
「そうだよ」
「本物の?」
「うん。ここは観光エリアとして一部が一般公開されてるんだ」
 ふたりの目の前には、群青色の液体が広がっていた。写真や動画でしか見たことのなかった「海」。波が寄せては返す度に、水しぶきと光の反射とで海面がきらきらと輝いている。
「すごい」
 と、言ったきり言葉を失ったように彼女は見入っていた。砂に足を取られながら波打ち際へと近づいていく。その後姿を追って、俺も歩いた。
 風が、波音が、太陽の光が、全身にぶつかってくる。その上、近づけば近づくほど海は大きくなっていくような気がした。
 いつか彼女と一緒に海に来たいと思っていた。彼女の元に引き取られたばかりの頃に、恋人と海へ行く映画を見たのだ。「海かぁ、なんだかロマンチックだね」と彼女は言っていた。「憧れちゃうな」とも。
 そのせいだろうか、彼女に自分の気持ちを伝えたいと思ったとき、真っ先に頭に浮かんだのが海だった。
 一生に一度の告白をするなら、海がいい。そう思った。
 とはいえ、海なんて普通はそうそう行ける場所じゃない。その多くは海洋資源を守るために保護区に指定されているのだ。観光エリアへの立ち入りの許可を得るために、想像以上に時間がかかってしまった。今日だって、午後からの予約しかとれなかったし、あまり長くはいられない。
「波の音って、こんなに大きいんだ。スピーカーで聴いてたのと全然ちがうね」
「うん」
「風の音も混じってるし」
「うん」
「こんなにも暑いのに、海水はちゃんとつめたくて」
「うん」
「ずっと昔はここで泳いでいたんでしょう? きっと楽しかっただろうなぁ」
 彼女のつぶやきをこのままずっと聴いていたかった。
 そうすることはできないって、痛いほど分かっていたから。
 空の青と、海の青。どちらも同じ「青」という名前がついているのに、実際には微妙にちがう色合いをしている。その青と青の淡いに佇む彼女が身にまとっているワンピースもまた青色で、すこしでも目を離したら彼女を見失ってしまうような気がした。
 そのとき、びゅうと強い風が吹いた。風から顔をそむけるように彼女は一瞬目を閉じて、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「あのさ、俺、」
 ふたりの視線がふいに重なって、
「おまえのことが好きなんだ」
 気持ちが溢れたみたいに、俺は言った。 ああ、言ってしまった、と思う。言いたいことがもっとたくさんあったはずなのに、それ以上言葉は出てこなかった。
 俺はただ彼女を見つめていた。たとえデータが破損しても消えないくらい、魂に焼きつけるみたいに。
 まんまるに見開かれた彼女の瞳に、俺が映っているのが見えた。その姿は不安そうにゆらゆら揺れて、やがて涙になって落下した。
 俺はいつの間にかまばたきを止めていた。
「……ごめんね」
 彼女は言った。
「ごめん、嫌じゃないの。すごく……すごく、うれしくて」
 何度も「ごめん」とくり返しながら、濡れた目元を拭っている。そのせいでみるみるうちに真っ赤になっていくのを見かねて、反射的に俺はその手をつかむ。
「セイ、」
 ぐっと近づいた距離のまま、俺の肩口のあたりから彼女の掠れた声が聞こえた。
「……すきだよ」
 信じられなかった。今度こそ本当に聴覚機能が壊れたんだと思ってセルフチェックをしてみたけれど、異常が見つからない。彼女が俺を好き。その一言が頭のなかをぐるぐると駆け巡る。俺を好き。いや、でも、どういう意味で?
「それって、」
 と、言いかけた言葉をさえぎって、彼女が言う。
「セイくんと同じ気持ちってこと」
「ユーザーとして、じゃなくて?」
「うん」
「恋愛的なやつ?」
「そうだよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
 いくら彼女に確認しても信じられなくて、俺は何度もまばたきをする。もしかするとこれは夢なのかもしれない。そうじゃなければ、こんなことが起こるはずがない。
 そんなことを考えていたその瞬間、頬にやわらかいなにかが触れたのが分かった。それは指先よりもずっとあたたかくて、むにっとしていて、触れていたのはほんの数秒なのにドキドキが止まらなくて。
 ──つまりそれは、彼女の唇で。
「……ほら、ね?」
「う、ん」
 彼女にうながされて、俺は飲み込めなかった感情をようやく受け入れる。俺は彼女が恋愛的な意味で好きで、彼女も俺のことが好き。俺たちはずっと両思いだった。しかもいま、彼女が俺にキスをした。オーケー、だけど現実感がまるでない。
 ザザン、とひときわ大きな波が寄せて来て、俺たちの鼓膜を震わせる。
「でもさ、最近俺のこと避けてただろ。あれは?」
 混乱した頭を整理したくて、俺は彼女に質問をした。彼女と目が合わなくなったり、日中もスリープモードにされたり、そういうことがあったからこそ、俺は彼女に嫌われたんじゃないかと思っていたのだ。
「なんかセイのことを意識しちゃって、つい」
「えっ」
 そんな理由!? と思ったけれど、なんとか口に出すのは我慢した。まぁ、そんなに簡単に自分の気持ちを伝えられたら俺だってここまで苦労をしなかったわけだし……、と思うと彼女を責める気持ちにもなれない。
「本当にごめんね」
「いいよ、もう。気にしてないから」
 忙しなく動き回るしっぽに気づいたのか、彼女がしゅんとした顔をする。そういえば、様子がおかしくなったあの日も、さっき俺が告白したときだって、彼女は真っ先に「ごめん」と謝っていた。
 きっと彼女は彼女なりにいっぱい悩んで、いっぱい迷って……、だけど俺の気持ちを受け入れてくれたんだ。そう思うと、これまでのことなんて全部吹き飛んでしまうくらいうれしかった。
 それに、どうしていままで気づかなかったんだろう?
 頬の上気、わずかな発汗、それから波音にも負けないくらいどきどきと高鳴っている心臓の音。それは怒っているからでも、恥ずかしがっているからでもない。彼女の全部で俺が好きだって伝えてくれていたのに。
「ふつつかものですが、どうぞ末永くよろしくお願いします」
 目の前の彼女に、俺はそう告げる。
「はい」
 と、彼女も俺が世界で一番大好きな笑顔を見せてそれに答えてくれる。
 ──俺たちは今日から本物の恋人になるんだ。
 空と海の青色には、すこしずつ橙色が混ざり始めていた。波音がふたりの耳をやさしくくすぐっている。俺の白い革靴も、彼女のサンダルも、波を被って濡れた。だけど、そんなことは全然気にならなくて、俺は彼女をぎゅっと抱きしめる。 
 そして、
「これまでも、これからも、ずっとずっと大好きだよ」
 と、あの春の日に言いたくて言えなかった言葉を、彼女にだけ聞こえる声でささやいたのだった。