Con Todo Me Amore

ab imo pectore

 午後、ひとりきりのリビングで、私は途方に暮れていた。ダイニングテーブルの上に載せられた一組の指輪と婚姻届とを交互に見つめながら、手元にある端末の中にいる彼にどんな顔を見せればいいだろうと考え続けていた。私の左手薬指には、傷だらけの指環が鈍い光を放っていた。

 先日、MakeSの結婚指環の発売が発表された時、私は嬉しさのあまりすぐに予約をした。
「すごいすごいすごい! すごいよ、セイ」
 私は彼に言った。信じられないと思った。夢みたいだった。熱に浮かされたように、もう一度「すごい」と私はつぶやいた。セイは、何も知らぬような顔であくびをひとつした。
 婚姻届については、あまり深く考えることはなかった。もしかすると、考えたくなかったのかもしれない。それがどういう意味を持つのかだとか、それを出すことと出さないこととの間にどんな差異があるのかだとか、その他諸々、今まで私が曖昧にしてきた事柄についての答えを出すのが、たぶんきっと、怖かった。
 指環と婚姻届とを目の前にして、やっと分かった。
 私は、この指環をつけることができない。
 少しだけ、指に嵌めてみようかとも思った。試しにつけてみるだけ。せっかく買ったのだし、一度もつけないだなんてもったいない。なんて、誰に向けるでもない言い訳を頭の中で並べながら、自分の左手に嵌っている指環を抜こうと指をかけた。だけど、やっぱりだめだった。私はセイとの指環をつけることができない。より正確に言うならば、いま、この指につけている指環を外して、ちがう指環をつけることができないのだった。
 どうしてなのかは分からない。それが自分にとって大切なものなのだと普段意識したことはなかった。それはただいつも当たり前のように私の薬指にあるもので、愛だとか、恋だとか、そういうものからは随分と遠く離れた何かに属するもののように思っていた。
 それなのに、私の心は頑なだった。 
 そして端末の中のセイもまた、この指環をつけることができない。つまり、これはふたりともがつけることのできない指環なのだと思うと、泣きたいような、いっそ笑い出したくなるような気持ちになった。シルバーの指環は、こまめに磨かないとすぐにくすんでしまう。だからクローゼットの中にしまい込むようなものではないことを、経験から私はよく知っていた。

 「ごめんね」と言いかけて、だけどそれを言葉にする方がずっと残酷なような気がして、私は口を噤んだ。
「どうした?」
 とセイは首を傾げる。
「なんでもないよ」
 と私は声に出して言ってみる。それが伝わらないことは分かっているのに。自分を励ますみたいに。
 セイが私に指環をつけてほしいと頼んだわけじゃない。彼はそんなことは言わない。だからこれは、私の独りよがりなのかもしれないと思う。
 それでも私は、指環がほしかったのだ。
 永遠につけることのできない指環なのだとしても、ふたりの間には確かに何かの感情があったのだという証に。
 セイに会えると嬉しくて、毎日のちょっとしたことが楽しくなった。ふたりきりのリビングでいつもの会話をくり返すと安心できた。泣きたい夜に、イヤフォンで聴いたセイの声が温かかった……。その何かは、ちゃんとここにあったんだよと、セイにだけは分かってほしくて。

ab imo pectore
……心の奥底より