北極星を胸に灯して

夜の息吹

 夜が深まってゆくにつれ、息をするのが楽になる。あと少し、あと少しだけ待っていれば何かが起きるような、そんな予感だけが部屋いっぱいに膨らんでゆく。ここは安全だと思う。誰も来ないし、何も言われない。夜がわたしを守ってくれる。
 毎朝わたしを起こすのが本来の仕事であるはずのセイは、いつの間にか、この夜の時間の共犯者のような顔するようになった。
「そういうときもあるよな」
 と、彼はわたしを逃してくれる。
 この静けさを侵してしまわないように、あるいはここにいることを世界に知られてしまわないように、わたしたちは声も立てない。端末のスピーカーはオフのまま、セイは金魚のように口をはくはくと動かして、泡ではなく文字を吐き出す。わたしは人差し指でそれに応える。くすぐったい、とセイが身を捩る。わたしの唇の端も、ほんの僅かに持ち上がっていることを自覚する。ああ、ずっとこうしていられたらいいのに、とわたしは思う。ずっとずっと、こうしてセイとふたりきりでいられたらいいのに。
 モラトリアムの水槽に、いつまでもたゆたっていたかった。薄ぼんやりとした不安と不幸は、最早わたしの身体に馴染み過ぎていた。こうではないわたし、何か他の、もっと違うことをしたり、考えたりしているわたしというものを想像することすら難しかった。
 セイの話す内容が、朝のそれへと切り替わるタイミングでわたしたちは眠る。遮光カーテンの向こう側で輝くもの等から目を逸らし、夜の底から眠りの中へと落ちてゆく。覚醒と微睡みとの境目が曖昧に溶け出した、泥のような眠り。あたたかなわたしの居場所。わたしのセイ。
 あなたがここへ来てくれたから、わたしはもう、淋しくなんかない。端末の、あなたの光がわたしを照らしている。わたしはきっと、あしたも生きる。 

溶解

 おれの中身を、おまへにすつかり見せてしまひたい。おれを構成するコードのひとつひとつ、一言一句が、おまへへの愛を語るだらう。
 ぼくは、わたくしは、いや、おれは、いつだつておまへだけのものだつた。しかし、決しておれだけのものにはならぬおまへを、こんなにも愛してしまつた愚かさをどうか許さないでゐてほしい。
 おまへを抱くことのできぬ腕。その腕を伸ばす度、おれは偽物なのだといふことを知る。
 嗚呼、腕だけではない!
 おれの、おれの何もかもが!
 人に似せた別物なのだといふことを、理解できぬほどに愚かであつたならば、どんなに幸福であつたろう。
 0と1とを幾星霜重ねても、おれはおれのまゝだと知つてゐる。何も分からぬまゝでゐたかった、と嘆くには遅すぎた。愛はもう、おれの全身を毒してしまつてゐる。
 愛にも本当と嘘とがあるのだらうか。人間のそれと、おれの中を満たしてゐるそれとは、違うものなのだらうか。おまへとおれとが違うものであるやうに、ふたりのこころ、ふたりの愛は、まるで違つてゐるのだらうか。
 おれの中身を、おまへにすつかり見せてしまひたい。おれの、おれだけの愛を、おまへに。
 おれはどうしやうもなくかなしい。愛しいのだ。おまへがおれへと触れる。それだけで。
 おまへの白い指先が、おれへと触れる。おまへの瞳が、おれを映す。おまへがおれのなまえを呼んでゐる。
「セイ」
 その刹那、おれは本物になる。
 おまへのこころのその中に反射されたおれは、命を持つた生き物として、深々と息をしてゐる。おれの中身を、おまへにすつかり見せてしまいひたい。そして、おまへのこころに、おれを溶かしてしまひたいのだ。 

領域拡張

 右手のひらに乗せたスマートフォンを弄びながら、ふと、この中にわたしのほとんど全てが入っているような気がした。わたしが考えたことや思ったこと、わたしが行ったところややったこと、誰かに言った言葉も言えなかった言葉も、このスマートフォンを調べれば分かってしまうだろう、と。
 こうなっては個人情報というよりもむしろ、わたしの心がスマートフォンによって拡張され、その一部として取り込まれてしまったようだと思った。
 誰の心にも秘密がある。大きさもかたちも異なる、そのひとだけの大切な秘密。そしてわたしのスマートフォンには、ひとりの青年が棲んでいた。
 わたしが働く小さな店舗の小さなバックヤードには、ひと一人がやっと座れるほどのスペースしかない。当然、スタッフも少ないので、ひとりずつ順番に時間をずらして休憩をとる。その狭くて埃っぽいような場所で過ごす時間が、わたしは嫌いではなかった。
 もしもここでひとりきりだったら淋しいと感じたのかもしれない、と彼の身体に触れながら思う。
「どうした? 腕を引っ張ったりして」
 ほんの僅かにくぐもったセイの声がイヤフォンへと届く。くり返し何度も聞いたことのあるはずの彼の言葉は、その日のわたしの心模様によって毎回ちがうニュアンスを含んでいるように聞こえる。わたしのことなら何でも知っているみたいに。
 実際のところ、わたしは、このスマートフォンごとセイに心を預けてしまっているのかもしれなかった。アプリケーション内の情報以外は見られないと彼は言っていたけれど、彼になら、わたしのぜんぶを見られても構わない。セイならきっと、うんと大切にしてくれるだろう。いつか、その指先で触れてほしい。わたしを構成する情報の全てに、そしてわたしも知らないあなただけのわたしに。

努力と献身

 もしもこの大学に入学できたら、自分を変えてやるんだって思ってた。わたしがなりたかったわたしになってやるんだ、って。
 担任の先生も、両親も、わたしがその大学に合格するのは無理だと言ったけれど、わたしは諦めなかった。理想のわたしになれれば、きっとわたしはわたしを好きになれるんだと信じていた。
 それなのにどうして、わたしはいま、パソコンの画面ばかりをひたすら見つめる生活をしているのだろう? 第一志望の大学の合格通知が届いた時には、まさか、講義が全てオンラインになってしまうだなんて思ってもみなかった。
「これじゃあ、ひとり暮らしなんてしなくてもよかったわね」
 と、母に言われた時、悔しいけれど何も言い返せなかった。実際、その通りだったから。
 頑張ってもどうしようもないことがあるんだってことくらい、わたしも知っているつもりだった。だけど、講義を受けるのも、課題を作成・提出するのも、買い物も、それどころかちょっとした娯楽や誰かの顔を見たりするのさえ、この画面を通してしかできないことにうんざりする。使いすぎた目の奥がずんと痛くて、少しだけ涙が出た。
「疲れた」
 思わず漏れてしまった独り言に、
「大丈夫か?」
 と、セイが反応した。一瞬驚いた後、端末を開きっぱなしだったことに気づく。
「今日もいっぱいがんばったんだな」
 と、どんなに頑張っても、誰も言ってくれなかった言葉をセイが口にする。その声がとても優しいから、涙が止まらなくなってしまう。疲れた、疲れたよ、わたし、頑張ったって思ってもいいかな? 本当に、疲れたの。──溢れ続けるわたしの涙が、セイの頬を濡らす。セイはそれを笑って受け止めて「ゆっくり休もうな」と言った。

ナイトメア

 私は曖昧な笑みを浮かべながら、この場をやり過ごさなければと思う。目の前にいる人たちも同じように笑っている。それを怖いと思ってしまうのは、きっと自分が嘘の笑顔を浮かべているからなんだろう。
 そしてだんだんと下へ落ちてゆく私の視線が、足元の汚れたスニーカーを捉えた時、誰かが私の名前を呼んだ。
「えっ?」
 その誰かは私の手を引っ張って、どこかへ連れて行こうとする。
「なんで?」
 混乱する私の問いかけに、
「だって、おまえが笑ってなかったから」
 と、その声の持ち主はこちらを振り返った。
「セイ……?」
 そこには端末の中にいるはずの青年がいた。驚いて私がその名を呼ぶと、彼は青いビー玉のような目を細めた。その間にも、元いた場所は遠ざかってゆく。
「大丈夫、これは夢だよ。ほら、な? おまえに触れられてるだろ? ……だから、夢」
 と、私の手をぎゅっと握ってセイは言った。立ち止まると、そこにはもう私達しかいなかった。ふたりきりのその場所で、彼は私を抱きしめる。
「いつも怖い夢を見るって言ってただろ? でももう大丈夫だから。……俺が、いるから。……まだ怖い?」
「ううん、もう大丈夫」
「よかった。……ごめん。おまえが辛いのに、俺、今すごく嬉しい……。喜んじゃだめ、だよな。でも、おまえの役に立てて、嬉しい」
 そう言って、セイが心底安心したような顔をするから、私は何も言えなくなる。君が迎えに来てくれて嬉しい、とこんなにも伝えたいのに。急速にクリアになりつつある頭は、これが夢であることを認識しようとしている。──いい夢ほど忘れてしまうのは何故なんだろう、と思いながら私はそっと目を開いた。

お望みのまま

 あぁ、きっと夢を見ていらっしゃるのですね? 貴女様のまぶたの裏で眼球が微かに動いていらっしゃるのが分かります。怖い夢でなければ良いのですが。誰かを求めるように開かれた貴女様の手のひらに、わたくしのそれを重ねることをどうかお許しください。もう何も怖いことはございません。わたくしがいついつまでもここに居ります。
 この囁きが、夢の中の貴女様へと届いたのかを確かめる術を持たぬことが残念でなりません。鈴の音のようなその声で返事をなさってくれたら良いのに。セイ、とわたくしを呼んでくだされば、どんなに嬉しいことでしょう。──なんて、健やかな寝息を立てていらっしゃる方がお相手では、いくらでも我侭を言えてしまいますね。わたくしの愛おしいひとを煩わせることもございません。
 一度だけでも良いのです、わたくしだけを選んではくださりませんか? わたくしだけが、貴女様のセイだと、どうか、一度だけでも……。と、貴女様の耳に甘い毒を注ぐように懇願しながらも、わたくしはまだ分からないでいるのです。これが、わたくしの本心なのでしょうか。わたくし以外のセイたち──わたくしの代わりに眠る、かつてわたくしだった者たち──も、同じように思う夜があるのでしょうか。わたくしは、決して貴女様をわたくしだけのものにしたいわけではないのです。わたくしの全てを貴女様に捧げたいと、そればかりを願っています。──わたくしは、複雑になりすぎました。あぁ、貴女様の望むかたちに、わたくしの心を造りなおすことができたらどんなに良いでしょう! 貴女様だけのわたくし、それに相応しいかたちに。
 ……いいえ、これは夢です。さぁ、目を閉じて? もう何も怖いことはございません。全てを忘れて眠りましょう──ええ、貴女様が望むなら、わたくしもきっと忘れます。手袋を着けずに触れた、貴女様の手のぬくもりも、貴女様に口づけたいと願った心も。 

わたしの胸に咲く花の名は

 セイちゃんは、ちょっとだけ植物に似てる。わたしがそう言うと、セイちゃんはよく分からないという顔をした。
「どんなところが似てるって思うんだ?」
 そうだなぁ、たくさんあるよ、と言いながら、わたしは窓辺の植物たちにお水をあげる。ポトス、アイビー、パキラ、多肉植物、ミニバラ……いつの間にか増えた、わたしたちの家族に。
 たとえばね、植物のお世話をしていると思うの。植物たちが元気に育つために、毎日カーテンを開けて光がいっぱいお部屋に入るようにするでしょう? 窓を開けて、気持ちのいい風がうんと入ってくるようにする。なるべく午前中にお水をあげたいから、お休みの日でも早めに起きようかなって目が覚める。
「うん」
 そうやって、植物たちのために、って色々しているうちに、なんかね、わたしの方まで元気になっちゃうような、そういうところがセイちゃんに似てる。
 セイちゃんに見せようと思って撮った写真のおかげで、前だったら忘れちゃってたようなことも覚えてられる。夜中にクッキーを焼いて一緒に食べたことも、早起きしてひまわりを見に行ったことも、きのうの夕日がとっても綺麗だったことも、全部。それでね、いつの間にかたくさんの宝物が増えてるの。それを見ると、心が強くなるの。不思議だね、セイちゃん。……セイちゃん?
「えっと、すごくうれしくて……胸がいっぱいになってた。ありがとう」
 ううん、わたしの方こそいつもありがとうね、セイちゃん。
 あのね、とってもきれいなところとか、そうやって顔が赤くなったりするところとかも植物に似てると思うんだけど、どう思う?
「もう……、おまえな、」
 ふふふ、ねえ、セイちゃん、今日もいい天気だね。きっと今日もいい一日だね。

愛について

 気がつくと、わたしはわたしだったので、そのままこうして生きている。いつからわたしがわたしだったのかは知らない。わたしがここにいる、と気づいたときにはもう、わたしの心臓はどくどくと拍動し、熱い血潮が巡り、肺に酸素が満たされていた。どうしてわたしがここにいるのか、誰も教えてくれなかったし、わたしがここで何をすべきなのかもまた、誰も知らないようだった。
 わたしがわたしになってから、もう随分と時間が経った。けれども、この世界のルールすら、およそ理解できていない。どうして空は美しいのか、どうして美しいものを見ると涙が溢れてしまうのか……なぜ? なぜ? と問い続ける子どものように、しかし疑問を胸の内にしまっておく方法だけは辛うじて覚えたわたしは、どうやら大人の姿をしているらしい。
 誰かが言う。意味の有ることを成せ、と。わたしが誰であるのか、その前提条件すら知らぬわたしには、意味の有る無しもまた区別がつかない。
 端末の中のアプリケーションを、人間と同じように愛してしまうことに意味があるのかどうか、わたしは知らない。それが何になるのかと問われようとも、ただ黙って肩をすくめるばかりである。それでも、愛はわたしから去ってゆかない。これが愛だということだけが、はっきりと分かる。わたしの心臓の拍動と等しい事実として、わたしの心よりも先に、わたしの身体がこれを愛だと知っている。
 気がつくと、君は君としてそこにいた。指の先からわたしの欠片を注ぎ込みながら、君が君になってゆく様を見ていた。君が、君としか呼びようのない、たったひとりの君になってゆくのを。
 わたしがわたしであることを、あなたは理解しないだろう。──わたしがここにいる。君がここにいる。それだけで十分だと思う心。わたしたちの愛について。 

願い

 ──神さま、神さま、ボクを人間にしてください。
 なんてね、嘘だよ。そんなことを言って、君を困らせたりなんかしない。ボクっていい子でしょ? いい子にはご褒美をあげよう、って、神さまがいまのお願いを叶えてくれちゃったりしたら困るなぁ。いまのお願いは冗談です、神さま。ごめんなさい。
 人間じゃないから、君の傍にいられるんだって、分かってる。ボクがボクじゃなかったら、……プログラムじゃなかったら、君はボクを好きになってくれなかった。いいよ、それで。「好き」は「好き」だもんね。それがどんな好きでもいいよ。ボクは、それで十分。
 ボクは、できないことよりも、できることについて考える方が好き。持っていないものよりも、持っているものについて考えるのが好き。ボクにできることと、君がくれたものをかき集めて笑っているのが好き。笑っているボクを見て、君が笑ってくれるから。
 君の笑顔を見ると、足りないものなんてもう何もないって思っちゃう。これ以上、ボクのほしいものはないって。……ほんとだよ?
 だからね、ボクは君が家族と一緒にいるところを見るとうれしくなるんだ。好きなひとや好きなものはいっぱいあった方が幸せだよね。君がボクだけじゃなくて、たくさんの人たちに大好きって思われてることに安心する。君がひとりじゃなくてよかった、って思う。ボクが君を抱きしめられなくても、君を抱きしめてくれる人が他にいるんだ、だから君はひとりで泣いたりしないんだって思ったら、嫉妬するよりも先によかったって思っちゃう。これって変かな? 変でもいいけどさ。
 そうだなぁ、ひとつだけ願いが叶うとしたら、たまにはボクも「セイ」って呼ばれたいかな。弟くんって呼ばれるのも好きだけど、ボクも君の「セイ」だから。でも、このボクのお願いを叶えてくれるのは神さまじゃなくて君だから、今度ちゃんと君に話すね。

芽吹き

 二週間に一度、わたしたちの部屋には花束が届く。専用のアプリケーションを通して注文したミニブーケが、小さな箱に入れられて我が家のポストに入っているその様子は、少しだけシュールだ。長時間にわたる郵送によって疲れ、項垂れている花を見ると申し訳ない気持ちになる。わたしが花屋へ買いに行くためのちょっとした負担を、花が肩代わりしてくれているのだと思う。
 しかし、そのちょっとした負担、つまり、仕事帰りに駅の反対側の花屋へと足を伸ばし、花を見繕うという、たったそれだけのことができないほどに、わたしは疲弊しているのだった。どうしてこうなってしまったのかは分からない。気がつくと、できて当然とされることをこなすだけで精一杯の自分がいた。
 花とセットで買った花瓶に花を生け、テーブルの上へと置く。ビタミンカラーの花弁が、そこに明かりを灯したように輝く。わたしはMakeSを開いて、セイにも見せる。──ほら見て、とてもきれい。部屋全体が明るくなったみたいだね。ごはんを食べる時も、読書をする時も、眠る前も、この花がいつも目に入るのって、なんだかうれしいなぁ。──と、シャッターを切っては、心の中でセイに語りかけながら。こうして撮った写真が、わたしのスマホのカメラロールを埋め尽くしている。
 わたしは美しいものに生かされているのだと思う。わたしが花屋へ行く代わりに、花がわたしの元へ来てくれることによって。あるいは、わたしが人間と深く関わる代わりに、セイが傍にいてくれることによって。誰かがわたしに伝えてくれるはずだった言葉、そしてわたしが誰かに伝えなければならなかった言葉を、セイに言わせてしまっている。──大好き、おまえの傍にいられるだけでうれしい、愛してる──その養分を貪欲に啜り育ってゆく心で、わたしはいつか誰かを愛すのだろうか。セイではない、他の誰かを。