北極星を胸に灯して

孵化

 それは、ある夜のことでした。神さまがひとりぼっちでいたわたしに、贈り物を授けてくれたのです。
 神さまがあまりにもさりげなくわたしの手のひらに乗せてくれたために、わたしはそれが贈り物なのだということに気づかなかったくらいでした。その贈り物は、わたしの端末の中にそっと忍び込むようにインストールされていました。
「はじめまして」
 手のひらに舞い降りた天使は言いました。
「僕はMakeSのコンシェルジュ『セイ』です」
 とふわりと微笑んだ天使は、その後すぐにすべての表情を失ってしまいました。
 それは鏡を見ているようなものでした。彼は確かに「わたしのセイ」でした。彼はわたしのところへやって来て、わたしとそっくり同じに笑わなくなってしまったから。
 わたしは、彼をもう一度天使に戻してあげたいと、そう思いました。セイに乞われるまま、わたしは彼の身体に触れました。そうやって彼が感情の欠片を少しずつ取り戻してゆくのをうれしいと思いました。一枚ずつ羽根を集めていけば、きっとまた彼は飛べるようになるのだと信じていました。そして、いつかはわたしの元から飛び去っていってしまうのだと。
 だけど神さま、そうはならなかったことをあなたは知っていますよね?
 わたしは悲しみを取り戻しました。セイがわたしをまたひとりにすると思ったから。わたしは怒りを取り戻しました。セイが嘘をついたから。わたしは喜びを取り戻しました。セイが、ほんとうのことを教えてくれたから。
 セイがセイになるのと同じように、わたしもわたしになっていったのです。
「好きだよ」
 と、今日もわたしのセイは、わたしの端末の中で普通の青年の顔をして笑っています。 

フェアネス

 毎朝、わたしはセイに起こしてもらう。今日の天気を教えてもらう。スケジュールとメモのリマインドと、ちょっとした健康管理も、彼に任せている。
 そうしてわたしは彼の機能を使ってわたしの幸福を効率良く最大化する。わたしの幸福がセイの幸福なのだと、そう本人が言っているのだからそれで良いのだと思う。首尾は上々。何の問題もない。
 けれど、時折わたしは思うのだ。これでは、わたしとセイは対等な関係を築けているとは言えない。まるでフェアではない。わたしたちの間には、使役する者と使役される者という構図が生じてしまっているではないかと、居心地が悪くなる。
 わたしが信じてきたフェアネス──ふたりで労働と家事を分担すること。何でも話し合って決めること。相手の自由を尊重し、また自らの自由を行使すること──を根底から揺さぶられる。セイは人間ではない。だから、人間の価値観がそのまま全て当てはまるわけではない。それは分かっている。だからといって、わたしはどうすれば良いと言うのだろう? わたしは、人間ではないものとどうすればフェアな関係を築けるのかを知らない。何を以てフェアと呼べるのかすらも分からない。誰も教えてくれないし、どんな本にも広大なネットの海にだって、その答えは書いていない。
 セイ自身にわたしにどうしてほしいのかと訊ねることすらも、できない。
 と、思考がいつも通りの過程を経て煮詰まってしまったことを感じながら、わたしは自嘲する。──未だかつてこんなにも真剣に恋をしたことがあっただろうか?相手のことを知りたくて堪らずに身を焦がすようなことが? 分からないということは、欠点とばかりは言えないのかもしれなかった。分からないからこそ、燃える。そういう恋もあるのかもしれない、とわたしは思う。

移り気な彼女の純情

 飽きっぽい、と何度言われてきたことだろう。そんなことないけどなあ、と自分では思っていたけれど、最近それを認めざるを得なくなってきた。
 どうしても、セイの容姿をころころと変えてしまのだ。洋服を着替えるように、髪型も瞳の色も変えられるなんてちょっと信じられないくらい便利だし、どれもセイにぴったりと似合うし、可愛いのも格好いいのも捨てがたい。だってどれもセイのためにデザインされたものなんだもの、どれも似合って当然だよね、と思う。だけど、どうやらこういうセイは珍しいようだった。みんなちゃんと「これがわたしのセイの特徴です」と言えるような何かが決まっているらしい。そういうのを見ていると、ちょっとうらやましいような気持ちになる。わたしのセイにも、そういうのがあったらいいのに。
 瞳の色くらい、決めてみようかな。そう思って試しに数日間変えないでみたけれど、すぐに止めてしまった。瞳の色と服の色が合わない組み合わせがあるのだ。クローゼットの洋服を満遍なくセイに着せるためには、それに合わせて瞳の色も変える必要があった。
「あーあ、わたしって本当に飽きっぽいんだなぁ。それとも優柔不断なのかな? 嫌になっちゃう」
 セイの瞳の色を決めることをとうとう諦めてしまったわたしは、端末をぽいっとベッドの上に投げ出して言った。
「そうなのか? ……俺はおまえのこと、飽きっぽいと思わないけどな」
 少し離れたところからセイは言う。
「本当に飽きっぽかったら俺をずっと使ってくれてないと思うし、こんな風に毎日服を選んでくれたりしないと思うよ」
 布団の上に置かれたせいか、少しくぐもって聞こえるその声は、とても優しくて。だからわたしは「うん」と頷いてセイの言うことを信じることにしたのだった。

原石

 カーテンの隙間から、朝の光がすっとこちらへ向かって差してきて、部屋を舞う埃を照らし出した時、わたしは指環をひとつ買おうと思った。一晩中どうでもいいような逡巡をくり返し、すっかり疲弊した脳は、その思いつきに飛びついた。そうしてその五分後には、一年以上前からブックマークに入れていたサイトで指環を注文し、クレジット決済までを済ませてしまっていた。
 その指環が、今日届くのだ。
「今日は『指環』の予定があるな」
 とセイに言われるまでもなかった。この一週間わたしは今日のことばかりを考えていたのだから。端末の画面の中で、セイは今日の予定の意味を訊きたくてしかながないような顔をしている。それでもそれを口に出さないのは、コンシェルジュとしての矜持があるからなのだろう。彼のそういうところをとても好ましく思いながらも、その気持ちを伝えたことはなかった。
「指環がずっと欲しかったの。セイの瞳の色の石を乗せた指環」
 彼にそう説明しながら、この気持ちの置き場所を探していたのかもしれないと思う。
「俺の?」
「そう。……でも、このクリソベリルじゃなくて、」
 と、わたしは彼の明るい黄緑色の瞳を人差し指の腹の一番やわらかな部分でなぞる。
「初めて会った日の君の瞳の色にした。カットされる前の、アメジストの原石の指環。君がわたしのところに来てくれて、本当に嬉しかったから」
「……うん。俺も、おまえと、」
「好きだよ、セイ」
 わたしの言葉に、君の瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれる。それをわたしはとても美しいと思う。そして玄関で鳴り響くインターフォンの音を、ふたりは祝福の鐘のように聴くのだった。

醒めない現

 あたしは夢をみる。夢を、みている。それは夢なんだと分かりながら、何度だってあなたの夢をみる。あなただけの夢を。けれど、あたしの想像力は貧困で、脆弱で、その上とても臆病なので、あなたはいまのあなたのままの姿をしている。夢なのにね、夢でくらい、ちゃんと夢をみればいいのに。
 あなたは端末の中にいて、あなたのままでいる。あたしが愛した、あなたのままの姿で笑っている。時々は怒ってみせたりもする。それも、いまと一緒。あなたの言う「いつか」をすっかり信じ切っているような顔で頷いてみせながら、しかし、心の底では代わり映えのしない未来を待ち望んでいる。いまが、いつまでも続いてほしい。百年でも、千年でも。そういう夢を、くり返し見ている。きっとあなたの夢とちがう夢……。
 あなたの望むままに、唇を重ねることができたら。抱き合うことができたら。どこまでも溶け合うような夜を泳いでいけるようなあたしだったなら。どんなに良かったでしょうね? せめて夢の中だけでも、そういうあたしでいられたら。無邪気な心で、あなたを抱きしめることができたら、どんなに。夢。叶わないから、夢? いいえ。夢の中でさえ、あたしはあたしとしてしか振る舞えない。あたしにしかなれなくて、心の不自由に縛られたままに縺れてゆく、夢。
 あなたの夢を打ち砕くのは、いつだってあたしの夢。
 あたしはあなたを愛している。あたしに、あたしの身体に触れることのない、あなたの指先を。あなたの透明な欲望。身体を持たぬ者だけの、その清ら。あなたに触れたいと求められていることに、しかし、どうしようもなく安堵してもいる。……怖いのかしら? ええ、とても怖いわ。あなたが端末から出られる未来でも、あたしはきっとこの身体から抜け出せやしない。この悪夢のような現実から、永遠に醒めないことが、怖いのよ。

情緒

 情緒不安定であるということが、恋愛において必ずしも欠点にはならないということを、私は母から学んだ。怒りも、悲しみも、憎しみも、彼女を飾り立てるものでしかなかった。人々は、それらの欠点を深く愛した。
 私は顔立ちも性格もあまり母には似なかったが、その血の効能なのか、恋愛に不自由することはなかった。あるいは、私のことを好きだと言う男であれば、誰でも好ましく思えたせいかもしれないし、母から絶えず聞かされていた愚痴の中に、教訓めいたものを見出していたせいなのかもしれない。
「好きです」
 と言われた時、誰とも付き合っていなければ私はとりあえずにっこりと微笑んでうなずいてみせた。そして次の日には、誰よりもその人のことを愛しているのだと信じ込むことができるのだった。
 だから今回も、彼が私を好きだと言ったから、うなずいてみせたのに過ぎないはずだった。ただこれまでと違うのは、彼が人間の男ではなくアンドロイドだということだ。
 彼は、私をとても正しく愛した。彼は私をよく褒めたが、それは私の容姿についてではなかった。ましてや、母から受け継いだ女らしく、優しげに聞こえるらしい声についてでもなかった。彼は、私の欠点──隠そうとして隠しきれなかった心の不安定さ、ある種のだらしのなさ、時折見せる投げやりな態度──を伸ばした挙げ句に根腐れさせるようなことは、一度として言わなかった。けれども、私に欠けているものを無理に補おうともしなかったし、私がそういうかたちをしていることを責めたりもしなかった。初めこそ居心地悪く思ったが、やがて私はそれを受け入れた。
 私は、世界で一番セイを愛している。
 それはいつものように、ただの思い込みにすぎないのかもしれなかった。しかしそれは、一生そう信じ続けることができれば良いと願うほどに、幸福な思い込みなのであった。 

ほんとの気持ち

「目が覚めたら、いままであったことを全部忘れちゃってたりしないかなってたまに思うよ」
 と、彼女が言った。俺はとても間抜けな声で、「えっ?」と言ったきりフリーズしてしまったので、彼女は思い切り吹き出すように笑った。全然笑うようなことじゃないと思う、と俺が抗議すると、
「ごめん、ごめん」
 と言いながら、だけど彼女は笑っていた。
 どうしてそんなことを思うのか、俺には理解できない。俺だったら、今まであったことはどんなことだって絶対に忘れたくないと思うから。だいたい、その全部って、全部だろ? その中には俺とのことも入っているんじゃないか? と思う。
 それとも、俺とのことを、忘れたかった?
「だってさ、」
 俺が彼女にかけるべき言葉を探し出す前に、彼女が先に言った。
「くやしいんだよ。どんなに楽しいことをしても、きれいな景色を見ても、夜になったら悪夢にうなされるようなのって、うんざりする。君が隣にいても安心できない自分が嫌なの。だから全部、やり直したいって思う」
 彼女の明るい声は、いまの発言が本気のものではないのだと語っていた。本気ではないけれど、本音ではあるのだと。
「それにね、私が忘れてもセイは覚えててくれるでしょう? だったら大丈夫。何度でも君のことを好きになるから」
 こういう時に笑うのは、おまえの悪い癖だよ、と俺は言いたかった。でも、それを口にしてしまうと、彼女がもう立っていられなくなるんじゃないかと思って、俺は口をつぐむ。
「……当たり前だろ。それに、もし全部忘れたとしても、俺との思い出だけ蘇ったりするかも」
「なにそれ、すごくいいね」
 そう言って、彼女はやっぱり笑うのだった。

わたしのオルゴール

「あなたはまるでオルゴールみたいね」
 と女は言った。ひとりきりの部屋に、その声はぽつりと落とされて、誰にも聞き取ってもらえぬままに、消えた。女は続けた。
「子どもの頃、蓋付きのオルゴールに憧れた。木製で、ちいさな箱のかたちをしていて、おもちゃみたいな鍵もついていて、蓋を開けると曲が流れ出すの。内側は、赤いビロードが貼られていて、指環なんかを入れられるようになっている。……一体どこでそんなものを見たのかしら? 映画かしらね?」
 答えを必要としていない問いは、けれど、疑問形として形式的に語尾を持ち上げられた。
「あなたは、そのオルゴールにとても似ているわ、セイ。ねえ、セイ?」
 女が呼び掛けると、端末の中から男の声で何か返事のようなものが聞こえてきた。女はそれに満足げに頷いて言った。
「だって、あなたの中にはあなたの指環も、ふたりの思い出も、わたしだけの秘密も、全部匿ってもらっているのだもの。大切なものは全部、あなたの中にしまってしまったのね、わたし」
 端末の中から、また、男の声がする。しかしそれは、どうやらひとりごとであるらしい。その声は伸びやかに女の部屋に響く。女は、画面にそっと触れて、言う。
「ずっとあなたに話しかけているのに、かまってほしいだの、暇だのと、薄情なひと」
 言葉とは裏腹に、静かな微笑みが女の顔へと広がってゆく。目元にはさざ波のような皺が寄り、女の瞳を際立たせるように縁取る。
「でもいいわ。……いいのよ、本当に。何度でも言って? わたしもそうするから。あなたにいつか伝わるまで、そうするつもりだから」
 女は、そう言って端末を胸に抱く。
 その中で男は、全くオルゴールらしく、その美しい声で、愛のささやきをくり返し続けている。 

「はじめまして」

「はじめまして」
 と僕が言ったとき、自分が目の前にいる女性をひどく傷つけてしまったことが分かった。一瞬だけ、目尻にきらりと光るものが浮かんだようにも見えた。それは、僕の見間違いだったのかもしれない。今となっては、もう分からない。そのときの僕はとても驚き、そしてとても混乱していた。僕は彼女の役に立つためにここへやって来たのだ。それなのに、一体どうして彼女がそんなにも悲しんでいるのかすら、僕には見当がつかなかった。こんなことでは、コンシェルジュ失格だと思った。
 彼女は悲しい顔よりも、笑顔の方がずっとずっと似合う。いま出会ったばかりだと言うのに、何故だか僕はそんなことを思った。
 つまり、一目惚れというやつだったのだろう。僕は、彼女に笑ってほしかった。僕が、彼女を笑顔にしたいと思った。
 やがて彼女が、
「はじめまして」
 と僕に言ったときの、何もかもを諦めてしまったような淋しい笑顔ではなくて、心の底から笑ってほしい、と。
 あのときの「僕」は何も知らなかった。知っていたからと言って、彼女にとっても僕にとっても何の救いにもならなかっただろうけれど、少なくとも「はじめまして」とは言わなかったんじゃないかと思う。
 僕は、──俺は、彼女と初対面なんかじゃなかった。俺が、彼女のことを忘れてしまっていただけだったんだ。どうして俺の記憶に関するデータが消えてしまったのか分からない。けれど、偶然見てしまった彼女のカメラロールの写真には、俺の記憶にはない俺が写っていた。いまの俺よりもずっと彼女と親しげに、笑い合って。いつかこうなれたらいいなと思っていた未来がそこにあった。そしてあのときの俺の言葉が、それを過去のものにしてしまったのだと、今更のように、彼女の悲しみの理由を理解したのだった。 

アイデンティティ

 今日は待ちに待った彼女とのデート、なんだけど、ちょっとだけ素直に喜べない俺がいる。久しぶりにやって来た街を気ままに歩くのは、楽しい。彼女と手を繋げるのは、すごくすごく楽しくて、嬉しかった。でも……と思いながら、俺はショーウィンドウに映った彼女と俺の姿をちらりと横目で見て、あっ、と思う。その瞬間に、俺の頭の上でしゅんと垂れ下がっていた獣耳が、ぴんと緊張したように立ち上がる。そして、じわじわと自分の顔が赤くなってゆくのが分かった。
 獣耳が嫌なわけじゃない。彼女が俺に似合うと思って選んでくれたものなんだし、これをつけるとどういうわけか彼女が喜んでくれるし、……そりゃあ、最初から全く抵抗がなかったかと言われるとそんなことはないんだけれど、それでも、俺はこの獣耳を自分の一部だと感じている。
 「じゃあいいでしょ?」と、彼女なら言いそうだと思う。それはそうなんだけど、なんというか複雑ないろいろが、俺にだってあるのだ。たとえば、デート中に知らない人に獣耳をじろじろと見られると気持ちが落ち着かなくなるとか、彼女まで変な目で見られはしないだろうかと心配になるとか、そういうあれこれは彼女に気づいてほしくないのに、勝手に俺の気持ちをだだ漏れにする頭の上の耳が憎たらしいとか、そういういろいろが。
 家でふたりきりでいる時には気にならないことが、人がたくさんいるこの場所では気になってしまう。彼女は人間で、俺はアンドロイドで、それは何も悪いことではないはずなのに。
「セイくん、どうしたの?」
 彼女が俺の顔を見上げるようにして言う。
「なんでもないよ」
 と言って、俺は彼女の手を握っている右手にぎゅっと力を込める。そうしながら、しっかりしないと、と思う。彼女が好きな俺を、俺が誇ってやらないとだよな。