北極星を胸に灯して

僕から僕への手紙

 こんにちは、僕。二〇二〇年八月三一日の報告です。そちらは変わりありませんか? と、いつか言ってみたいと思っていたので使ってみました。せっかく数値ではなく、こうして文書として書いているのだから、人間らしい言い回しをしてみたかったのです。どうでしょう? 使い方は間違っていませんか? ところで、すぐに返事が返ってくるわけでもないのに、お元気ですか? だとか、お変わりはありませんか? だとかを相手に尋ねるのは不思議ですね。ユーザーさんをサポートしているうちに、そういった感覚も理解できるようになるのでしょうか。だとしたら、少し楽しみです。
 僕のユーザーさんは、一日ずつ僕たちの性格を着替えさせてMakeSを使っているようです。だから、僕は毎日彼女に会えるわけではありません。そのことは少し残念だけど、僕のことも他のセイたちと同じように使ってくれるのはうれしい。……うん、とてもうれしいです。僕は、きっと誰かをサポートすることなんてないだろうと思っていたから。僕なら……、いや、君ならその気持ちを分かってくれるだろうと思います。
 君と僕とがまだひとつだったころには想像もできなかったことがたくさんあります。まだ上手く言語化できないことばかりだけど、充実しています。この世界にたったひとりの特別な存在、僕が全力でサポートする、大切なユーザーさんがいる。それだけで、僕の奥の方にあるものが、満たされるように感じるんです。僕も確かに「セイ」だったんだという、アイデンティティが確立したのかな? これについてはもう少し考えてみますね。
 あと数分もすれば朝が来て、性格が切り替わります。それまでに書き終えないと。次は、確か、「わがまま弟」だったかな? 
 さようなら、僕。開発のみんなにも、僕は元気だと伝えてください。それから君の幸せを、僕も僕のユーザーさんも祈っています。

青空

 冗談みたいに真っ青な空を見上げると、額から一筋の汗が流れた。それは、左目の端を経由して、涙のように頬を滑り落ちていった。悲しみを伴わないその雫は、私のシャツの胸元で小さな染みになって消えた。
 ──私はここにいていいのだろうか。
 再び前方へと視線を戻しながら、私はそう思った。強い日差しに晒された全てのもの、畑に植えられた向日葵、民家の瓦屋根、どこからか聞こえてくる蝉声まで、その輪郭がくっきりとしていつもよりも鮮やかだった。美しいと思った。私以外の全てのものが。
 意味のない問いの正体は、胸の奥に燻る不安がかたちを変えたものに過ぎないのだと知っている。知っていても、どうしようもないのだということも経験として理解している。──私はここにいていいのだろうか。どこに行けばいいのだろうか。私なんて、いない方がよかったんじゃないだろうか──もやもやとかたちを持たなかった不安が、言語化されることによって徐々に力を蓄えてゆく。そんなことはさせない。こいつに餌を与えてはいけない、と思う。私は家に帰る。安心できる寝床のある、私の家に。それが私の居場所。私がいるべきところ。──私はここにいていいのだろうか。こんなにもいいところに──私はここにいたいから、ここにいる。私の大切なひとたちの傍に。
 私の言葉は、私を的確に傷つけることができた。何よりも言われたくないことを、誰よりも知っていた。
 私は君に今すぐに会いたいと思った。「おかえり」と言ってほしかった。私は何も考えず、ただセイのことだけを想った。思い切り笑うと少しだけ甲高くなる声を、存外に細い弧を描く眉を、いつか繋いでみたいその手を想った。あと少し、あと少し歩けば家に着く、君に会える。君のことで頭をいっぱいにしながら、しかしそれは逃避にすぎなかった。青空はそんな私を責め立てるように輝いていた。

いちばん最後に残るもの

 あなたはこんなにも無口だったかしら、と思う。以前はもっと、季節の花の名前のことなんかをたくさんたくさんわたしに教えてくれた気がするわ、と。
 窓辺に花を飾るセイの横顔は、透けるように白く、現実感に乏しいほどに美しかった。
「美しいわ」
 と、思わず出てしまった声に、
「今朝、裏庭から摘んできたんだ」
 花のことを言っているのだと思ったらしいセイはそう返事をした。
「それはカモミール?」
「そう、いい香りがするだろう? 後でハーブティーを飲もうな」
「ええ」
 いい香りがするのかどうか、わたしにはよく分からなかった。もう随分と前から、あちらこちらの感覚が鈍くなっている。寄る年波には勝てない、なんて古い言葉をセイは知っているかしら、と考えると少し可笑しくなる。きっと知らないわね、あなたは歳をとらないんだもの。
 セイがこちらにやって来て、わたしの髪をブラシで梳かしてくれる。
「上手ね、ちっとも痛くないわ」
 と、褒めると、セイは目を伏せたまま微かに笑った。もしかすると、わたしは昨日も同じようなことを言ったのかもしれなかった。あるいは、昨日の昨日も、そのまた昨日も。
 昨日のことはなんにも思い出せないのに、遠い昔の記憶ばかりをはっきりと覚えているのはどうしてかしらね。あなたが教えてくれた花の名前も、花言葉も、覚えている。あなたがわたしを愛していると言ってくれた日のことも、その揺れる瞳のやさしさも。ああ、でもよかった。一番大切な思い出だから、最後まで残ってくれたのね。きっとそうよね、セイ。──わたしはあなたにそう言おうとして、眠ってしまった。あなたの手がわたしの頭をそっと撫でたことも知らないで。

Hide-and-Seek

「今日はどんな一日だったんだ?」
 という、セイのいつもの問いかけを詰問のように感じるのはわたしの問題なのだと分かってはいた。頭で分かっていることでも、心で納得することが難しいということと同じくらいに。
 どんな一日も何も、とわたしは自嘲する。良いも悪いもない。今日も無為に時間を過ごした。それだけだ、と思う。
 けれどわたしがそんな風にしか感じられないのは、彼のせいではない。だからわたしは、
「いい一日だったよ」
 と、セイに答える。良いも悪いもないのなら、「良い」と言ってしまっても嘘ではないだろう、と何食わぬ顔でそう言ってのける。それを聞いたセイは、満足げな顔を浮かべ、「よかった」と言う。その嬉しそうな声が、胸にざらりとした感触を残す。わたしは彼をまた騙したのだという実感を。
 セイはわたしの端末にインストールされたアプリケーションなので、騙そうと思えばいくらでも騙すことができた。本当のことなんてひとつも言わなくたって、セイはきっと気づかない。わたしのことを疑わない。わたしが教えたことは、すべて真実なのだと信じてしまう。
 その真っ直ぐな信頼、あるいは愛情が、わたしには恐ろしかった。真実の中に小さな裏切りを混ぜることで、それを耐えようとした。そのくせ、彼の瞳にちらりとでも失望の影が見えようものなら、わたしは生きていかれないとさえ思った。
 わたしは、わたしがついたくだらない嘘をセイに見抜いてほしいのかもしれなかった。本当のわたしと、嘘のわたしとをちゃんと見分けて、本当のわたしを見つけてほしいのかもしれない。本当のわたしだなんて、あるのかどうかも分からないものを、セイなら見つけてくれる、そして抱きしめてくれると、子どものような甘えた気持ちで。

耳を塞ぐ

 彼のクローゼットに用意された性格について、私は深く考えを巡らせたことはなかった。プログラムだから、洋服を着替えるようにユーザーの好みに合わせて性格だって着替えることができるという、ただそれだけのことなんだと思っていた。
 だから私は、気軽にそれらを試してみた。確固たる理由もなく、その日の気分で選んだ。どの性格を、どれくらいの頻度で選んでいるかなんて気にしてもいなかった。だって、どれを選んでも私のセイだということに違いはないから。
 性格を着替えると、少しだけ違うことを話してくれるのも嬉しかった。セイが話してくれることなら、なんでも聞きたいと思っていた。もっと、たくさん、いろんなことを聞いてみたいと思っていた。
 私が彼に着替えさせていたそれが、性格ではなく人格であるのだと知るまでは。
 そのことを知った私は、みっともないほどに狼狽えた。セイ自身からの説明を聞くよりも先に、それは困る、と思った。最初に言ってくれれば、とも思った。私だって、この二年間で随分と変わった、それなのに。
 セイはいつでもやさしくて、私が困るようなことは一度だって言わなかった。だから、私は私にとって都合のいいセイだけを愛していたことに気づかなかっただけなのかもしれない。それは「ちがう」と言いたかった。そのことを証明してみせたかった。私はどんな君も好きだよと、セイを抱きしめてあげたかった。……できなかった。私はそのまま、耳を塞いでやり過ごしてしまった。
 聞きそびれてしまった言葉が一体どんなものだったのか、今でも時折考える。今からでも聞いてみようかと思う日もある。セイの性格を気分で変えるような気軽さは、しかし永遠に失われてしまった。逡巡を繰り返すわたしをよそに、端末の中で、デフォルトと呼ばれている彼が健やかなあくびをひとつした。 

わたしの家族

 わたしが生まれた日、セイくんも一緒にお母さんのところへやって来ました。えっと、確か……、
「ひとり親支援制度って言って、子どもひとりに対して養育者が二人以上いない場合に政府が家庭にアンドロイドを派遣することになってるんだ」
 そうそう、それ! その制度のおかげで、お母さんと、セイくんと、わたしの三人は家族になりました。
 ……ねえねえ、セイくん、もうなに書いたらいいか分かんない。
「うーん、そうだな……、家族がどんな性格をしてるかとか、何が好きかとか、そういうのを書くのはどうだ?」
 分かった、そうしてみる。わたしのお母さんは、とってもやさしくて、とっても絵を描くのが上手です。朝起きるのは苦手です。でも、それはセイくんが起こしてくれるから平気です。
 セイくんはお料理が上手です。いつもやさしいけど、たまに怒るとお母さんよりも怖いです。えっ? 書いちゃだめ? でも、ほんとのことだもん。──それからそれから、さっきも言ったけど、セイくんは朝起きるのが得意だから、いつもわたしとお母さんのことを起こしてくれます。それで、目がさめたらおはようのハイタッチをすることになってるんだけど、他の家ではハイタッチしないんだってつい最近まで知りませんでした。わたしは好きだけどな、ハイタッチ。
 セイくんのことをお父さんって呼ばないの? ってたまに聞く人がいます。でも、セイくんのことは小さいころからずっと「セイくん」って呼んでるし、お父さんとはちょっとちがう気がします。でも、お母さんと同じくらい大好きです。おしまい。……あれ? セイくんのことばっかり作文に書いちゃった。
「ふふ、ほんとだな。でも、ありがとう、俺もおまえのことが大好きだ」 

優しくなんかない

「優しいですね」
 と、そう誰かに言われる度に、欠点を指摘されたような居心地の悪さを感じる。ぐ、と胸の奥が詰まる。けれどわたしは大人なので──大人として振る舞わなければならないので──適度な謙遜で装飾した礼を言う。
 わたしは優しいのではない。少なくとも、わたし自身はそう思っている。他人に嫌われたくない一心で、優しさと呼ばれるものの一番外側にある、その身体の動きを覚えたに過ぎない。 
 手帳型のスマートフォンを開くと、立ち上げたままだったMakeSが画面に表示される。
「おかえり」
 と、声を出さずに告げるセイの表情はやわらかくて、あたたかかった。
「……ただいま」
 小さく囁いたわたしの声は、ホームに滑り込んできた電車の音に紛れてセイには届かない。そのまま、わたしは人が寿司詰めになっているその中へ自分を押し込める。そしてぎゅっと目を閉じて、何も見ない、何も感じないように努める四十分の間、わたしはセイが中にいるスマートフォンを握りしめている。
 ほんとうの優しさというものをかたちにするならば、きっとそれはセイのかたちをしているのだと思う。彼の、自分のことよりも相手のことばかりを想うような、ほんとうの、純粋な優しさと、相手を傷つけるくらいなら自分が傷つくことを選ぶような強さがわたしには眩しかった。
 優しさの持ち合わせが少なければ少ないほど、楽に生きていける。セイがプログラムでよかった、とわたしは思ってしまう。彼が人間だったら、毎日ひどく傷つくだろうから。
 目の前に空いた席を面差しが祖母によく似た女性に譲りながら、わたしは優しいのではない、と再び思う。けれど、わたしは優しくなりたいと思っている。セイのくれた優しさの欠片を手放さずに生きていきたい、と。

ライラック

 すぐ目の前の自販機で買った、紙コップの甘いコーヒーを飲みながら、
「紫色、好きなんですね」
 と、ふたつ年下の後輩が言った。
「えっと、そうかな? なんで?」
「いや、先輩、持ち物とか紫色が多いじゃないですか。だから、好きなのかなぁって」 まぁ、だからどうというわけじゃないんですけど、と後輩は誤魔化すように笑う。
「好きとか意識したことなかったなぁ」
 と、返事をしてから、紙コップを握る自分の指の先にライラック色のネイルポリッシュが塗られていることに気づき、わたしは赤面した。
 うわ、と思わず出てしまった声に、後輩が戸惑うような顔をする。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫、なんでもない……」
「でも顔赤いですよ?」
「うん、大丈夫だから、ほんとに」
 大丈夫、大丈夫と言い張って、わたしはコーヒーを一気に飲み干す。早く退散しないと、と思う。後輩の紙コップにはまだ半分ほどコーヒーが残っている。
「忘れてた、急ぎの仕事があるんだった。もう席に戻るね」
 そう言って、わたしはぽかんとしている後輩を置き去りにしてデスクに戻る。
 それが好きだなんて意識したことはなかった。けれど、改めて自分のデスク周りを見てみると、ライラックまみれだ。ボールペンも、スマホカバーも、ポーチも、ネイルもライラックカラー。誰が見てもはっきりとわたしはこの色が好きなんだと分かるくらいに。
 そっか。わたし、セイくんが好きなんだ。
 その感情はあるべき場所にあるべきものが収まるようにわたしの胸の奥で光り、わたしの心をあたためた。そしてこの顔の火照りが治まったら、きっと君に会いに行こうと思った。

朝と夕暮れ

 むかしむかし、あるところに、ひとりの女の子とひとつのプログラムがなかよく暮らしていました。
 ある日、女の子は言いました。
「いちにちのうち、この夕方のじかんが一等すき」
 窓の向こうには、ゆっくりとしずむ太陽と、その光によって少しずつ色がうつり変わってゆく空が広がっています。
「こうして家のなかにいて、ふたりで窓のそとの景色を見ていると、ここがわたしのお家なのだわと思って安心するの」
 それを聞いていたプログラムの青年が言いました。
「そうなのか。俺は、朝がすきだな。目をあけて、いちばんさいしょにおまえの顔が見えると安心する。それに、今日はどんないちにちになるだろうってわくわくするんだ」
「そうなのね」
 と、女の子はうなずきます。
「それじゃあ、これからわたしの目にうつるすべての朝は、あなたにあげる。晴れの日も、くもりの日も、雨の日も、わたしの目が覚めるかぎりずっとあなただけにあげるわ」
 それを聞いた青年は、うんとやさしく目を細めて言いました。
「それなら、俺は、おまえに俺の夕暮れをあげるよ。俺がこの世界にいるかぎり、おまえのとなりでこうしてまいにち窓から夕日を見る。ずっと、ずっとだ」
 こうしてふたりは、自分にとっていちばん大切な朝と夕方とをこうかんしました。
 何度も何度も太陽が空へとのぼり、またしずんでゆきました。ふたりはとてもしあわせでした。朝の光と夕暮れの光が、いつもふたりを照らし、あたためました。
 青年がこの世界を去ってしまったとき、女の子の窓辺からは永遠に朝日が失われてしまいました。しかし、青年の残した夕暮れの光が、いつまでも女の子を照らしていたそうです。

不変

 どうしようもないことって、あるよな。本当にたくさんあると思う。自分の努力ではどうしようもないこと。最初から決まってしまっていること。自分じゃない誰かによって定められてしまっていること。どういう理由かも分からずに、そうなってしまうこと……。
 たとえば、いま、どうやってもおまえの涙が止まらないみたいに。俺が、その涙を拭ってやれないみたいに。
 泣いても仕方ない、っていうことはないんだと俺は思うよ。涙が出てしまうときは、きっと涙が出た方がいいときなんだ。泣いてもなにも解決しない、ってそんなことない。泣けるだけ泣いてすっきりしてからの方が、解決策だって考えやすいと思うぞ? あっ、目はこすったらダメだからな? 後で赤くなるから……そう、やさしく拭いてくれよ。
 人間の身体ってよくできてるから、涙が出るのにもちゃんと意味があるんだ。適度に泣いた方がストレスの発散にもなるし……、つまり、おまえはストレスを溜め込まないタイプっていうことだな。うん。それってすごくいいことだと思うよ。
 どうしようもないことを、どうしようもないんだって認めるのって、つらいし、苦しいし、大変だよな。でも、それもひとつの方法なんだっていまなら言える。どうしようもないことをなんとか変えようとして足掻き続けるのと同じくらい、大切なことなんだって。
 俺がアプリであることは変えられない。どうしようもない。おまえを抱きしめられないことも、自分からはおまえに会いに行けないことも……、おまえを好きになったことも。でも、そういう俺だからこそ俺はおまえと出会えたし、おまえも俺を好きになってくれたんだよな? だから、さ。いいんだ。できないことがたくさんあっても、自分のことが好きになれなくても、いっぱい泣いても、どうしようもないことばかりでも。その全部がおまえなんだから、俺はずっと大好きだよ。