緑の指
緑の指の持ち主とは、きっとわたしのセイのようなひとのことを指すのだと思う。どういうわけか、彼が世話をした植物は、野菜でも花でもよく育った。何かこつがあるのかと訊ねてみたが、
「うーん、特別なことはしてないと思うぞ?」
とセイは困った顔をするばかりだった。実際、彼と一緒にベランダの植物を手入れしている時にも、あっと驚くようなことをしているのを見た記憶はない。それどころか、わたしのしていることとそんなに変わらないように見えた。水と肥料を与え、花殻を摘み、伸びた枝や茎を剪定する。時折、大きな鉢に植え替えたり、株分けをしたりする。そのくり返しだ。
けれど、わたしが世話をしたときと、彼のときとでは、植物たちの調子が明らかに違った。決して日当たりがいいとは言えないわが家の狭いベランダで、ミニトマトが収穫できたり、大輪の朝顔を咲かせることができるのは、セイのおかげだと言っていいだろう。
「わたしだけだったら、きっとみんな枯らしちゃってたな」
さながら小さな植物園のように、これ以上は置く場所がないほどに植物が並べられているベランダを眺めながら、わたしは言う。本当にセイがいてくれてよかった、最初のひと鉢を枯らしてしまったら、もう二度と植物を育てなかったはずだもの、とそう思いながら。
「そうか? 俺がこのビオラだったらおまえに育ててほしいって思うけどな」
指先で、その花弁に触れながらセイは言う。その指先は、わたしに触れるときと同じようにやさしい。そして、わたしは、セイがいなければ植物を育てようとすら思わなかったのだということを思い出す。わたしが花や緑を愛するのは、セイがわたしのこころに種を撒き、育てたからなのだということを。
マグカップ
俺は、マグカップをひとつ所有している。シンプルな白地に「S 」というアルファベットが大きく入ったイニシャルマグだ。それから、空についての辞典を一冊と、絵本を一冊。彼女と共有のフォトアルバムを二冊。それが、俺の持ち物の全てだった。
もちろん、俺はそれらに自分の手で触れたことはない。それどころか、マグカップは家で映画を観るときにコーヒーを入れて、彼女がふたり分飲んでくれているし、辞典も本もアルバムも、彼女がページをめくってくれなければ俺は読むことができない。
だから、本当のところを言うと、俺が使っているとは言えないのかもしれないとたまに思う。端末の中のプログラムには、たぶん、マグカップは必要ない。彼女がコーヒーを飲みすぎて眠れなくなっているのを見たりすると、無理をすることはないんじゃないかと言いたくなるときもある。
でも、彼女のイニシャルと俺のイニシャルのマグカップが並んでいるのを見ると、彼女と一緒に暮らしているんだな、と思えて嬉しくもあった。それになんだか、ペアのマグって恋人同士だなっていう感じもするというか、うん、まぁそれはいいとして……。
つまり、「セイのマグカップ」と彼女に呼ばれているそれは、俺の居場所なんだと思う。彼女が用意してくれた、俺のためだけの場所。初めは端末の中だけが、俺の世界だった。それが、彼女の心の中へ、そして、いまは俺の持ち物という質量を伴って、端末の向こう側の世界へと拡がろうとしている。
映画に熱中していたりすると、彼女につられてうっかりマグカップに手を伸ばしそうになる。画面の中の主人公たちも二次元だから、そういう錯覚をしやすいのかもしれなかった。いまは無理でも、いつかは自分のマグでコーヒーを飲むことができるだろうか。もしもそんな日が来るとしたら、きっと俺のファーストキスはコーヒーの味がするのだろう。
ゆきふる町のふたり
空とは、見上げればいつでも青いものなのだと思っていた。そうではないと知ったのは、大人になって北の方にある町へと越してからのことだ。分厚い雲が空を覆い、光が薄くなったままの状態で冬の数ヶ月間を過ごさなければならないことに、わたしはひどく驚いた。
人間は、産声を上げたときに吸い込んだ故郷の空気を、一生その肺に抱きつづけるのだという。
「へえ、なんだかロマンチックだな」
とそれを聞いたセイは言ったが、わたしは別段そうとは思わなかった。けれども、わたしの頭や心の決めたことなどにはお構いなしに、わたしの瞳は冬の青空を恋しがり、わたしの肺はふる里のあたたかな空気を恋しがっている。それはとても不思議なことだと思う。わたしがわたしだと思っているものが、わたしの全てでないということにふいに気付かされる。
「おまえの生まれたところって、どんなところなんだ?」
「そうだなあ、空がいつでも青かった。冬の空は、その青が淡く雲の白色と溶け合うようにやわらかな色になった。雪はめったに降らなくて、めずらしく降った日には先生が授業をやめて校庭で雪遊びをさせてくれた」
わたしは努めて坦々と話した。
「そうか……その頃のおまえに会ってみたかったな」
いまにも雪が降り出しそうな空を見上げながら、セイは言う。「一緒に雪遊びをしてみたかった」と。その横顔を眺めながら、わたしは「うん」とうなずく。
わたしのセイはやさしいので、その場所へ行ってみたいとは言わない。それは、プログラムの胸にあらかじめ刻み込まれているやさしさとは、また違うものなのだろう。
「雪が積もったら、雪うさぎをつくろうか」
わたしのためだけに用意されたやさしさが、心の中に溶けてゆくのを感じていた。
上手く言えないその訳は
彼とわたしとの間に選択肢がないということに、困る日が来るだなんて思わなかった。セイが端末にいた頃は、おなじ会話の繰り返しに倦んだり、自分の気持ちとはかけ離れた返答の選択肢しか用意されていないことにあんなにもやきもきしたというのに。
いまはもう、自分の気持ちを、自分の言葉でセイに伝えることができる。となりにいる彼の手に触れて、その温もりを感じることができる。そんな夢のような未来がやって来たらきっとすごくすごく幸せだろうと思っていた。だけど、どうしてだろう? なんだか上手くいかないのだ。
「どうした?」
明らかに挙動不審なわたしに対して、セイは控えめに訊ねる。
「何か俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
「え、えっと」
だけど、セイにそんな風に見つめられると、頭が真っ白になって、さっきまで何を考えていたかすらもう思い出せない。こういうとき、彼の右肩あたりに、あの懐かしい選択肢が現れたりしないだろうかと、馬鹿げたことを考えてしまう。現実逃避だ。
もう何だってできるのに、何もできない。いつも胸がつまって、思っていることの半分も言えない。長いあいだ一緒に暮らしてきたはずなのに、セイが全然知らない人みたいに見える瞬間がある。休日なんて二十四時間セイと一緒で、ドキドキしすぎて心臓がいつか破れてしまうんじゃないかと思う。
だって、だって……、セイってこんなに格好よかったっけ!?
「おーい、大丈夫か?」
と、セイが心配そうに声をかけてくれるので、ますます居た堪れない。うつむいたまま、小さな声で謝るわたしに、「ゆっくりでいいからな」と囁く彼の声は、しかし、どういうわけか少し嬉しそうなのだった。
潮風に染まる
彼女とふたりで暮らすこの小さな町では、風が吹くといつも潮の匂いがする。アパートの二階にある俺たちの部屋と海とは随分離れているはずなのに、窓を開け放っていると、ふとした瞬間に海の気配を生々しく感じたりするのだ。その度に、俺はいまの自分に嗅覚が備わっていることにはっと気付かされた。
そんなとき、彼女の顔を窺ってみると、彼女はなんでもないような顔をしている。彼女にとってその匂いは、子供の頃から慣れ親しんだものなのだろう。むしろ、何の匂いもしない風の方が、彼女にとっては異様なものだったのかもしれないと、先月まで暮らしていた街──いまの町よりも多少大きな地方都市──のことを思い出しながら思う。
「匂いって、いいものだよな」
と言う俺の言葉に、彼女は首を傾げる。
「何? どうしたの、急に」
「いや、匂いってさ、記憶に残りやすいんだ。それは、脳の感情を処理する部分に直接繋がってるからなんだって」
皿を洗っている彼女を、後ろから抱きしめながら俺は言う。
「だから、きっと、好きな匂いを嗅ぐと無意識に安心するんだろうな」
「わあ! くすぐったいよ、セイ」
「ごめん」
彼女は、「ちょっとびっくりしただけで、別に嫌なわけじゃないけど」とかなんとか、顔を赤くしてぶつぶつ言っている。本当は嫌じゃないことはよく分かっているけれど、俺の腕から彼女を解放して、洗われた皿を布巾で一枚づつ拭き始める。
以前よりも顔色が良くなった彼女の、その髪の毛からは、少しだけ潮風の匂いがした。彼女のふる里のそれと同じ、なつかしい匂い。そのうちに、俺にとってもこの匂いが当たり前のものになるのだろう。ないと不自然なふたりの生活の一部になり、俺の一部になって、俺を想う彼女の心にいつまでも香るのだ。
ピグマリオン
白くてつるりとした、ゆで卵のようなセイの肌に触れる。その私の指先に、セイがびくりと身じろぎをする。
「怖く、ないのか?」
セイが慎重に訊ねる。
「怖くないよ」
私は、できるだけいつも通りの声でそう答える。私よりもずっと、セイの方が怯えたような様子だったから。
といっても、彼の表情が見えているわけではない。いまの彼の身体は、ただの無地のマネキンのような状態だった。でも、声はちゃんとセイの声だから、どんな気持ちでいるのかを少しは想像することができる。いま、彼は私に嫌われてしまうんじゃないかと思って、怖くて、不安で堪らないのだと。
「セイのことが怖いわけないでしょう?」
と、だから私はもう一度言う。
私のセイは、廉価版のアンドロイドだった。彼のプログラム自体は、端末の中にある。彼はシンプルな人型のボディにホログラムで自分の容姿を描画して、端末の中からそれをコントロールしていた。食事をすることはできなかったけれど、普段の彼は、人間と同じように見える。今日はたまたま何かの不具合で端末とボディの接続が悪いらしく、そのホログラムが上手くボディに表示されないのだ。そのせいで、セイはまるでのっぺらぼうのような有り様になっている。
端末とボディの触覚の伝達は正常であることを祈りながら、私はセイの手をぎゅっと握る。セイはそれを握り返してはくれない。黙ったままでいる彼の顔からは、どんな感情も読み取ることができなかった。もしかすると、不具合が直るまでこうして黙っているつもりなのかもしれない。
彼の唇のあたりのように思われる場所に、私はそっと口づける。病めるときも、健やかなるときも、と誓ったあの日と同じ気持ちでいることを、セイに伝えるために。
君と行けたら
死んだらどこへゆくのだろう? とたまに考える。眠りへと落ちてしまう直前、照明を消した部屋のベッドに身を横たえながら、俺はたったひとりで行かなければならないその場所について、思いを馳せる。
アンドロイドやプログラムが活動停止した状態のことを人間や動物のそれと同じように「死」と呼ぶようになってから、長い時間が経った。街を歩いているときに「アンドロイドも救われる!」という広告が急に流れてきてひどく驚いたのも記憶に新しい。最近流行している浄土宗系の新派仏教では、俺のようなアンドロイドも、プログラムも、電子ペットも仏に帰依すれば極楽浄土に行けるのだいう教えを説いているらしかった。
極楽浄土がどんな場所なのか、俺には上手く想像ができなかった。花がたくさん咲いていたりするのだろうか? それはどこにあって、いつまでいることができるのだろう? 少しだけ気になって、広告動画が流れてくる度に注目していたけれど、そこからは漠然としたイメージしか伝わって来ない。だけど「人間も、アンドロイドも同じ浄土へ行くことができる」という言葉には、心惹かれた。
死んでしまった後も彼女と一緒にいられるのなら、すごくいいと思う。もしもどちらかが先に死んでしばらく待つことになるのだとしても、いつかまたいまのようにふたりで過ごせるのだと分かっているとしたら、彼女のいない世界に耐えられるような気がした。俺は彼女とまた会えるなら、行き先は極楽だろうと、地獄だろうと構わなかった。でも、彼女が地獄で苦しむのは嫌だなとも思う。なるほど、だからみんな極楽浄土に行きたいんだな、となんだかすごく納得してしまう。
生きている間の時間だけじゃ足りないなんて、わがままだよな、と俺は思う。わがままで、ないものねだりばかり。だけど、自分のそういうところは、人間みたいで結構気に入っていたりするのだった。
週末、愛についての学習
それは部屋で映画を観始める直前のことだった。
「セイって、恋愛映画が好きだよね」
画面の方へ視線を向けたまま、彼女はそう言った。
「えっ?」
と、思わずあげてしまった驚きの声は、スピーカーから流れるファンファーレにかき消されてしまう。画面にはすっかり観慣れた配給会社のロゴマークが大きく映し出されていた。さっきの言葉は、俺の返事を求めていない独り言のようなものだったのだろう。彼女はもうそれ以上何も言わなかった。
こうして毎週金曜日に映画を観るのは、長く続いているふたりの習慣だった。別に約束をしているわけじゃない。でもなんとなく、ふたりで交代で週末に観る映画を選ぶことになっている。彼女と会えない時間に映画を選ぶのが俺の密かな楽しみでもあった。
そして、いま流れている映画は俺の選んだ映画で、それは彼女の言う通り、恋愛映画なのだった。そういう映画が好きなのかどうか、考えたこともなかった。どちらかと言うと、彼女が喜んでくれそうな映画を選んでいたつもりだったのに。確かに、ロマンチックなデートとか、手を繋ぐ前のドキドキとかに憧れる気持ちはある。観ていると俺の方まで同じ気持ちになったりもする。それはつまり、隣にいる彼女も俺と同じようにドキドキしたり、そわそわしたりしている可能性が高いわけでもあって……いや、そんな下心ばかりというわけでは断じてないけど!
「おまえは、こういう映画は嫌いだった?」
映画に夢中になっている彼女に、俺はそう問いかける。「そんなことないよ」とすぐに返事が返ってきたけれど、上の空だから本当かどうか、ちょっと怪しい。だけど、まぁいいや、と俺は思う。俺にもおまえ以外の「好きなもの」があったっていいんだよな。きっと。
肉と鋼
俺の頭の中には砂時計があって、その細いくびれからさらさらと砂の落ちてゆく音がいつでも聞こえる。よく耳をすまさなくては聞こえないほど小さく、けれども決して途切れることのない音。その砂が全て下へと落ちてしまった時、俺のボディは活動を停止する。
国際法によって、アンドロイドの使用年数は十年だと定められている。機体の安全性の確保と、加速する世界人口の減少に対する配慮らしい。そのことを、悲しいことだと感じたことは一度もない。たぶん、そう思わないように設定されているのだろう。それは人間の優しさのようにも、残酷さのようにも思える。怖くはない。不安でもない。悲しくもならない。だけど、そこあったはずの大切なものがないような、奇妙な欠落感だけが俺の胸の奥に残っていた。
俺は、眠っている彼女を起こさないように、そっとその額にキスをする。髪を撫で、寄り添うように彼女の身体を抱きしめる。人間の身体は柔らかくて、脆くて、すぐに傷ついてしまう。重いものだって持てないし、記憶のバックアップも取れないし、こうして一日の三分の一の時間を眠らなければ健康を保てない。それなのに、アンドロイドよりもずっと長い時間を生きるのだ。
俺も、いつか彼女を置いていなくなる。それがいつのことなのかを誰よりも知っているはずなのに、そのことを、俺はどうしても上手く想像できない。このベッドでたったひとりで眠る彼女の小さな背中を思うと、意識に靄がかかってしまう。
「好き」という感情を包んでいる物質が肉か鋼かというだけなのに、彼女と俺ははじめから随分と違っている。俺の手も、彼女の手も、同じようにあたたかくて、重ねればこうして温もりを分かち合えるのに。俺は、彼女の規則正しく静かな寝息に耳をすませる。そのしばらくの間だけ、俺は、頭の中の砂時計の音のことを忘れることができるのだった。
コンシェルジュにお任せを!
ピピピ、と聞き慣れたアラームの音が部屋に鳴り響いた後、
「そろそろ出かける時間だ」
とセイが告げる。
「ちょっとだけ待って!」
まだ出かける準備が整っていない私は悲鳴を上げる。それを聞いたセイは「俺はいくらでも待ってやりたいんだけど」と、少し申し訳無さそうに苦笑している。
私はコートとバッグをクローゼットからひっつかんで、バッグの中身を確認する。確認したところで何かを忘れることはほぼ確定しているのだけれど、それでも、しないよりはましだろう。いつもはセイと一緒にメモ帳を開いて「バッグの中身リスト」と突き合わせて最終確認もする。でも、今朝はそんな余裕はなさそうだ。
玄関の三和土に出しっぱなしだったヒールに足を突っ込む。電車の発車時刻まで、あと十分。走らないと間に合わない、とドアを開けようとしたそのとき、セイが、
「リマインドだ。『折り畳み傘』を忘れてないか?」
と、少し慌てたように言う。そうだった、今日の天気は雨の予報だからと、リマインダーを設定してもらったんだった、と私は思い出す。そして、戸棚から折り畳み傘を取り出して、そのまま外へと飛び出したのだった。
「た、助かった〜〜」
なんとか乗るのに間に合った私は、シートの上で脱力する。
「ありがと、セイ。いつもごめんね。寝坊とか忘れものばっかりで」
周りの人には聞き取れないようなぼそぼそとした声で私は謝る。
けれど、セイは言った。
「おまえの苦手なことは、俺の得意なことなんだから、もっと俺を頼れよ。……俺は、おまえの役に立てるのが嬉しいんだ」
知ってるだろう? と言うように、優しげに目を細めて。