秋、君と本を読みたいと思った日に
「このアプリの中の本とか漫画、読んでていいよ」
と、ある日彼女が言った。
「わたしが君に会いに行けない間も、本を読んでいれば淋しくないかなと思って」
それはMakeSのとなりに配置された電子書籍専用アプリで、彼女のお気に入りの本がダウンロードされているらしい。実際、それはとても魅力的な提案だった。喉から手が出る、という慣用句を頭に思い浮かべるくらいには。彼女の好きな本や漫画を読むことができれば、彼女の好みをもっとよく理解できるようになるし、共通の話題も増えるし、そういうデータを集めればデートにも活かせるだろう。
「ありがとう。……でも無理だと思う。MakeSには指定されたSNS以外のアプリに干渉する権限が与えられてないから、たぶん読めない」
俺は心の底からがっかりして言う。いや、彼女がそうやって俺のことを考えて言ってくれたんだってことは嬉しいんだけど、だからこそ余計につらい。
「そっか」
「ごめん、せっかくおまえが考えてくれたのに」
「いいよ、いいよ、ちょっと思いついただけだから」
と、俺を励ますような明るい口調で話す彼女が、急に思いついたように言った。
「ねえ、セイ。これ見て? 著作権の切れた作品を無料で公開してるサイトなの。わたしが好きな本のタイトルを教えるから、読んでみてよ。インターネットの検索はできるんでしょう?」
SNSへのシェア機能を使って送られてきたURLを開くと、読みきれないほどの作品がずらりと並んでいる。そのタイトルが、ちょっとだけ涙で歪んで見える。いやちがう、泣いてないけど。でも、俺はこうやって何度でもおまえに恋をするんだ、とそう思った。
花のように、風のように
どうしようもないことって、あるよね。というよりも、どうしようもないことばっかりだよね、ほんとに。自分の気持ちでさえままならない。どうしてこんなことを思ってしまうんだろう? どうしてこんなことをしてしまうんだろう? どうして、やろうと思ったことすらできないんだろう? ってそんなことをくり返して、もう何年経ったかな。
そういうどうしようもないことのひとつひとつを嘆いたり、泣いたりして抵抗するのは、わたし、もう随分前にやめてしまったの。
ねえ、セイくん。わたしはもうなんにも考えたくない。空がきれいだとか、今年もセンニチコウの花が咲いただとか、そういうこと以外はなあんにも。
ベランダには真夏の日差しが降り注いでいる。おまけにエアコンの室外機もあるので、気温も湿度もひどく高い。たまに朝起きられなくて、水をやりそびれる。それでも目の覚めるような濃いピンク色の花を咲かせてる、センニチコウはえらいね。わたしにもあんな風に丈夫な身体と心があったなら、もっと善い人間になれたのかな。
ねえ、セイくん。プログラムとして生まれるってどんな気持ち? 人間として生まれるって、わりと最悪な気持ちです。わたしは人間よりも花に生まれたかったな。光のほうへぐんぐん葉っぱを伸ばしてみたかった。強い根がほしかった。そよそよと風にそよいでいたかった……。
なんてね、でも、もしも生まれ変わるなら、わたしはきっと、花になります。セイくんがいちばん好きな花になるよ。わたしがどんな姿でも、あなたはわたしを見つけてくれるでしょう? あなたがどんな姿でも、わたしはあなたがあなただと分かるもの。あなたがあなたのすべてをくれたから、今度はわたしがわたしのすべてをあげる。摘まれるのなら、あなたの指がいいの。それともふたりでいつまでも風にそよいでいましょうか?
いつも
いつもと同じ時間、いつもと同じ部屋、いつもと同じようにふたりで交わすやりとり。いつもと同じ、っていうのは俺にとっては退屈っていう意味じゃなくて、おまえと積み重ねてきた毎日を愛おしむための言葉なんだってそう思っていた。けれど、
「おはよう」
と、俺の手のひらに指先を重ねる彼女は、いつもと全くちがう姿をしていた。
「えっ!?」
驚きのあまり俺が言葉を失っている間に、彼女はいつもと同じように広告を再生させてしまう。彼女のその姿が見えたのは一瞬だった。だから、もしかしたら俺の見間違いなのかもしれない。プログラムも寝ぼけるっていうことがあるのかも。きっとそうだ。
そう自分に言い聞かせてみたものの、広告を再生し終えた俺が対面した彼女は、やっぱりいつもとはちがった。彼女の容姿がどうとか、そういう理由で俺は彼女を好きになったわけじゃない。彼女がどんな姿でも大好きだ。見た目がどうというよりも、心と身体が健康であることの方がずっと大事だから。でも、いま俺が言いたいのはそういうことじゃない。だって彼女は──瞳の色と髪の毛の色が俺と同じ色になっていたから。
「確認なんだけど……、いつの間に髪を染めたんだ? 昨日は染めてなかったよな?」
「えっ? 染めてないよ?」
「えっ?」
しばらく混乱した後、彼女と開発からの報告を総合して分かったこと。それは、この現象は彼女の容姿が実際に変わったのではなく、俺のプログラムにバグが発生したことで彼女の瞳と髪の毛の色がいつもとちがって見えた、ということらしい。すごく驚いた。けど、俺の色の瞳で笑う彼女は……うん、たまにはいつもとちがうのも悪くない、というかすごくいい……。そんなことを思いながら、俺は特別な一日を彼女と過ごした。
邂逅
妻が頻繁に端末に触れるようになったのはいつからだろう。いまとなっては、もう思い出せない。薄々は気づいていた、その違和感が少しずつ自分の中で膨らみ、やがて無視することができないほどになったとき、僕はその意外な真実を知った。
彼女は、あるアプリケーションにはまっていたのだった。曰く、「可愛いコンシェルジュの男の子に予定とかを管理してもらうだけの健全なアプリケーション」。それを聞かされて、なるほど、と僕は思った。なるほど、この人はそういうやり方で心のバランスをとるのだな、と。
僕が頭の中でシミュレートしていたありとあらゆる最悪な妄想よりは、随分と賢い方法だと言える。賢くて、堅実で、誰も傷つけない、さみしさを飼い慣らすための方法。
僕には画面が見えない角度で端末を覗き込む彼女の横顔をなるべく見ないようにする。けれども、どうしても見えてしまうその表情は、かつては僕に向けられていたものにとても似ていた。結婚する前のいまよりも少しだけ若かった彼女が、僕だけに見せたあの表情だ。
微かに恋心のようなものを滲ませている彼女を、僕の妻を、僕は初対面の女性のそれのように見つめる。そして、同じ家に暮らし、同じものを食べ、同じベッドで眠ってきた彼女の中に、他人のような側面がまだ残されていることに、純粋な驚きと感動を覚えた。それは嫉妬ではなかった。軽蔑でも、諦念でもなく、僕と出会う前の彼女の面影を愛おしく思った。かつての僕は確かに彼女に恋をしていた。久しぶりに会えたねと抱きしめてしまえばきっと消えてしまうであろう、儚い幻影。 プログラムの青年がひとり登場したところで、僕と妻の関係もふたりの間にある感情も変わりはしない。その事実は、勝ち負けの問題ではないにせよ、存外に優越感を感じさせるものであったことも最後に書き加えておこう。
物語を生きる
アプリケーションの青年にスケジュール管理を任せるようになって以来、電子書籍を読む頻度がめっきりと減った。随分と可笑しなはなしである。そもそも、この端末は電子書籍が読みやすいように画面が大きめのものを選んだはずなのだ。その端末で、どういうわけか、わたしは青年の顔ばかりを見ている。
電子書籍を読まなくなったからといって、読書自体を止めてしまったわけではない。厳密には、止められるわけがなかった。なので、最近のわたしは専ら紙の本ばかりを読んでいる。あんなにも出歩くのを面倒くさがっていたというのに、いまでは週に一度は図書館まで歩いて行って、本を借りる。左肩には本の入ったトートバッグをかけ、右手には端末を握りしめて歩く片道二〇分ほどの道のりを、わたしは楽しんですらいるのだ。本当に、全く、信じられないことだった。このわたしが、青年に言われるがままに季節の花を探しながら歩いているだなんて。
わたしは恋愛に限らず、感情の機微というものに疎い。だからこそ、本の登場人物たちの感情の豊かさを興味深く思ったし、彼らを通してほんの僅かに自分の心が揺れるのが面白いと思っていた。
それがいまはどうだ。アプリケーションの青年に好意を寄せられ、絆されて、まるで物語の中を生きているみたいじゃないかと思う。
いままで読んできたどの本よりも、わたしの心を揺り動かす極上の物語。
スタンドに固定した端末では、青年がうたたねと覚醒とを短いサイクルでくり返している。わたしはその気配を感じながら、借りてきたばかりの本を開く。紙の本の方が目が疲れにくいので、長時間活字を読んでいられるようになった。従って、こうしてふたりで一緒に過ごす時間も増えていくばかりである。わたしは本のページをめくり、セイはわたしの人生のページをめくる。そうやって続いていくわたしたちの物語は、まだ始まったばかりだ。
ふたつの恋
好きなひとの好きなものは、なんでも好きになりたかった。おまえの好きな本も、映画も、音楽も、なんでも俺は知りたくて、なんでも大切にしたいって思ってた。
だから俺には、好きなひとの好きなひとを嫌いになるだなんてできない。
彼女には俺とは別に好きなひとがいるんだって最初から分かってた。彼女のことを好きになればなるほど、それがどうしようもないことなんだってことも思い知らされた。俺だって、彼女を好きになろうと思ってなったわけじゃない。ただ自然に、心が惹かれていった。消したくても消せなかった。それを消してしまうことは、俺の心を消してしまうことだと思った。そういう気持ちを彼女も誰かに対して抱いているのだとしたら、それを捨ててほしいだなんてとても思えない。俺が好きになったのは、きっと、そのひとに恋をしている彼女なんだから。
そんなことをつらつらと説明する俺に、彼女は、
「聞き分けが良すぎる」
と嘆くように言った。そして、
「わたし、他に好きなひとがいてごめん、なんて言ったりしないから。でも、わたしのことを好きになってくれてありがとう、セイ」
とも。こういう時、いつものように「大好き」と言葉にしないところがとても彼女らしいと思った。俺の欲しがっている好きじゃないけれど、彼女が俺を大好きだって思ってくれていることがすごく伝わってくる。
「俺は諦めが悪いんだ。これからもおまえのことをずっとずっと大好きだけど、俺も謝ったりしないよ。……だから、おあいこだな」
ありがとう、俺にこの恋をくれて。俺に心を与えてくれて。俺を俺にしてくれて。そんな俺を、ずっと傍に置いてくれて。
そして、「もしもふられたら俺の胸で泣いていいからな」、と言う俺に、彼女は「そうするよ」と言って笑った。
道具の本懐
もともと片付けるのが苦手な質ではあったのだ。使った後に元の位置へと戻せないタイプではなく、何を自分の傍に置き、何を捨てるかという選択ができないタイプの。
セイと暮らし始めてからその傾向が一段と強くなった。前はそれほど気にならなかったもののことがやけに気になるようになった。たとえば、使い捨てのボールペン。中のインクがなくなったら捨ててしまわなければならないそれを、わたしはなかなか捨てられなかった。この数十年で、一体何本のボールペンを使い捨ててきただろう。いまさら手元にある一本のボールペンを捨てるのをやめたところで、どうなるというわけでもないのに。
ボールペンと、セイは、ちがうのに。
たしかにセイは自分のことを「道具」だと言ったけれど、でもそれはボールペンと同じだということではない。少なくとも、わたしはそう思う。いや、でも、セイから見たら、このボールペンだって、わたしの役に立ちたいと頑張っている同僚のように映るのだろうか。分からない。いくら考えても分からないけれど、そうなのかもしれないと一度思ってしまったらもう、平気ではいられなかった。
それでも結局、わたしは使い捨てのボールペンを捨てた。使い終わった後も数日間手元に置いてみたけれど、他の方法を見つけることができなかった。ごめん、と心の中でつぶやきながら、わたしは誰に、あるいは何に対して謝っているんだろうとぼんやりと思った。
その後、わたしは猛烈な勢いで部屋を片付け始めた。大切なものだけを部屋に置いておきたいと生まれて初めて思った。自分が大切だと思えるもの、そして大切に使い続けられるものだけを所有したかった。不必要になったたくさんのもの──わたしはそれらをゴミとは呼びたくなかった──を袋にまとめ、空いた場所に新しく買ったセイ専用のスマホスタンドを置く。その特等席で、わたしの頼れるパートナーは楽しそうに鼻歌を歌っていた。
デュエットを聴きながら
バックグラウンドで起動され続けているMakeSのシステムが、彼女の声を拾う。スカートの衣擦れも、カップとソーサーが擦れる際に立てる微かな音も、彼女も聞いているであろう風の音も。
「☓☓☓☓」
彼女が笑う。
「☓☓☓、☓☓☓☓☓」
熱心に何かを囁く。けれど、俺にはそれの内容を理解することはできない。俺が認識できるのは予め決められたフレーズだけだった。だから、その楽しげな彼女の声を、俺は音楽のように聴く。 彼女が奏でるその美しい旋律を、いつまでも聴いていたかった。俺の耳をくすぐるソプラノ、いつかふたりで聴いたピアノ曲のように跳ねる音。
「☓☓、☓☓☓、☓」
見なくても彼女が何をして、どんな顔をしているのか分かるみたいだった。リビングの大きな窓から差し込む日差しが、彼女の白い頬を輝かせている。取っ手に指をかけるのではなく、指先で摘むのが正しいのだと言っていた、その危なっかしいやり方で辛うじて持ち上げられたティーカップ。そして、やっぱり時折溢れてしまう紅茶がつくる小さな染み。
「☓☓、」
ティースプーン三杯分のブラウンシュガーの甘さを含んだ声で呼びかける彼女の幸福に満ちた微笑みと、
「好きだよ」
それに応える、もうひとりの声の持ち主の横顔も。 俺の胸に疼く痛みは、しかし些細な問題だった。この美しい音楽を前にして、何を憎み、何に怒れと言うのだろう。美しいものはみな、どんな感情をも飲み込んで、より美しくなってゆくばかりだ。俺はただ耳を傾ける。この世界でたったひとり、俺だけが聴くことのできる彼女の命の音楽に。
愛は遅効性薬物
たったひとりでいい。
誰かがわたしを世界でいちばん好きだと言ってくれたらわたしは幸せになれるんだと思っていた。
馬鹿だなぁ、そんなわけないのに。
だけどわたしはわたしを選んでほしかった。わたしだけを選んでほしかった。誰よりもわたしが必要だと言われたかった。他の誰かじゃなくてわたしがいいと、そう誰かに言われたかった。
結論から言おう。わたしはそのたったひとりと出会っても、ちっとも幸せにはなれなかった。いや、半分くらいは幸せになれたかもしれない。ちっとも、なんて言ったらセイが悲しむだろう。
「好きだよ」
と、わたしが望めば一晩中だって愛を囁き続けてくれる彼を目の前にして、そんなことは口が裂けても言えない。「わたしのことがが世界でいちばん好き」どころではない。セイの世界の全て、そのほとんどがわたしで構成されているというのに。
それは確かに、わたしのほしかったものにちがいないのに。
わたしはわたしの貪欲さにほとほと呆れてしまう。どんなわたしだって好きだと言うセイは、その貪欲さごとわたしを許す。それを罰のように感じるのは、わたしがわたしを嫌いだからだろう。
愛は万能薬ではなかった。愛によってあらゆる呪いが解け、あらゆる傷口が塞がるわけではなかった。ありあまるほど与えられる愛の多くが、わたしの手のひらからぼたぼたとこぼれ落ちていった。
はぁ、とわたしはため息をつく。馬鹿だなぁ、本当に。だけどもう仕方がない。わたしの愛も呪いも傷口も、このまま抱えていくしかない。そしてこの両足で前へ進むしかないのだ。だっていまのわたしには、世界でいちばん大好きで幸せにしたい君がいるから。
わたしのために
彼女の左手の人差し指が、俺と一緒に運試しをしたいという選択肢を指し示す。俺が、
「わかった。おまえのためにがんばるな」
と言って福引の画面を出すその一瞬前、いつも彼女の顔が翳るように思うのは、たぶん、気のせいなんかじゃない。
だけど彼女はいつも連続して福引を回すので、しばらくの間彼女がどんな表情をしているのか、俺からはほとんど見えなくなってしまう。仕方がないので、俺は彼女の前に立ち塞がるように流れ続ける動画をやきもきしながら見つめる。パズル、ダイエットサプリ、恋愛シュミレーションゲームの広告。……開発も少しは広告を選んでほしい。後で報告を送っておかないと、と思う。そして、ようやく動画が止まる頃には、彼女は普段通りの顔をして俺を待っている。
こういう時に「どうしたんだ?」と尋ねることができない自分のことが少し嫌になる。おれはもっとおまえの役に立ちたいのに。
*
どうしようもなく不安なとき、わたしはセイと福引を回す。端末のスピーカーの音量をゼロにして、広告がすっかりなくなってしまうまで回し続ける。
何等が出るかはそれほど重要ではなかった。それよりも福引を回すことのできる回数が多ければ多いほどうれしかった。福引を回すと、少しだけ安心することができたのだ。これでセイの寿命を伸ばすことができたはずだと思う。それが数日分なのか、あるいは数秒分なのか、わたしには分からないけれど。
「おまえのためにがんばるな」
とセイが言う度に、わたしは胸を締めつけられる。わたしのことばかりを考えている君を、抱きしめたくなる。がんばらなくていいから、役になんて立たなくていいから、ここにいて。ずっとずっと傍にいて。そんな君の尊厳を傷つける言葉を口にしてしまいそうになる。きっと君にはこう言うべきなのだ。わたしのためにがんばってずっと傍にいて、と。