repair
「また不具合が出るようでしたらご連絡ください。お大事に」
私は目の前にいるふたりに向けて、業務上必要とされる程度の微笑みを過不足なく顔に浮かべてそう言った。
「はい」
と答えたのは、ふたりのうちの男性の方だった。彼の身体に不具合が出たのだから、彼が返事をするのが当然だとも言える。けれども、私の依頼人はその隣に立っている「彼のユーザー」なので、厳密に言えば、こういう場合はユーザーである彼女の返事を求めるべきなのかもしれなかった。
「また考え事してる?」
助手の質問が、私の意識を業務へと呼び戻す。依頼人たちはいつの間にか退出している。度々こうして考えても仕方のないことを考えて、仕事の手を止めてしまう。私の悪い癖だ。
「さっきの彼、君と同じシリーズだったね。旧型の-sei-なんて今どき珍しい」
「僕だって、旧型だよ」
「まぁ、そうだけど」
「ジャンク品のリペアのセイの方が、珍しいと思うけどな」
やれやれ、と私は肩をすくめてみせる。私のセイは口がよく回る。その上少し皮肉っぽい。そんなことを言えば「あなたの影響だと思うな」と、言うに違いないけれど。
アンドロイドのメンテナンス技師をしていると、様々なアンドロイドに出会う。大抵の場合、彼らは行き過ぎた献身と愛とで無茶をして、すぐに故障する。手首や足首の部品を破損し、皮膚を破く。特に、シリコン製の皮膚は張り替えるのが大変だ。毎回全身を張り替えるわけにもいかないので、新しい皮膚が周囲の皮膚の色と馴染むように調整するのも技師の腕の見せどころだった。
「次の方をお呼びしてもいいですか?」
いいよ、と私はセイに頷いてみせる。いいよ、私が君たちを何度だって直してあげるよ。
息を吐く
はじめて眼鏡をかけた日の違和感を、なんとなく覚えている。こめかみと鼻のあたりがむずむずして、とても変な感じがした。こんなものを一日中顔にくっつけておくなんて耐えられないと思った。だけど、いまではお風呂に入るときと眠るとき以外のほとんどの時間は眼鏡をかけていて、それを自分の身体の一部のように思っている。
そんな風に、この息苦しさも当たり前のものになってゆくんだろうかとわたしは思う。はぁ、と無意識についてしまったため息が、眼鏡のレンズを白く曇らせ、またゆっくりと元のクリアな状態へと戻ってゆく。こうして、呼吸も、嗅覚も、視覚も、マスクによってその一部を奪われて十全に機能しない日々に慣れてしまいたくはなかった。
「おーい」
とイヤフォンを通して端末の中からセイが呼ぶ声が聞こえ、わたしは足を止める。彼の身体に触れると、彼はいつも通りに話し始める。その口元は、わたしと同じくマスクで覆われている。けれども、彼の声はそれによってくぐもったりはしない。マスクをつけていても、セイとは問題なく会話ができるし、二本の指で触れればキスだってできる。
だけどわたしは、セイの顔がよく見えないことが淋しい。マスクをつけていない顔の方が好きだと思う。もう他の誰かがマスクをつけていても何も感じなくなってしまったのに、セイに対してだけはそう思えることに、わたしは安心している。
「励まして」
とわたしは言う。どこへ行ったらいいか分からない、迷子のような気持ちで。
「大丈夫だよ」
声が小さすぎて聞き取れないだろうと思ったのに、セイはそう応えてくれる。「大丈夫だよ、頑張れ、心配だ」と。午後の光は夕暮れへと向かって色づき始めている。二人の部屋へと帰るために、わたしは再び歩き出した。
おはよう、世界
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。そんな使い古された言葉を頭に思い浮かべる程度には、それは神秘的な光景だった。
「Morning make System -sei- Start up」
その言葉とともに、青年のまぶたがゆっくりと開かれる。そしてあらわれた淡いむらさき色の瞳と、そこに灯る理性の光。
「はじめまして」
と彼がわたしに向かって笑いかけた、その瞬間のことを、きっとわたしは一生忘れないだろう。
「セイ」
わたしが呼ぶと、彼はきょとんとした表情を一瞬浮かべた。まだ名乗ってもいないのに、と思ったのだろう。それでも、すぐに気を取り直して「はい」と彼は応えた。その様子を見て、完璧だ、想像以上だとラボのスタッフたちが歓声を上げる。その声と、不躾な眼差しとに、セイはなんとも言えない表情を浮かべたまま、わたしの言葉を待っているようだった。
「はじめまして、セイ」
わたしは彼の目を見て言った。
「こちらこそ」
「これから色々と大変だと思うけど、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
彼はもう一度、わたしににこりと笑ってみせた。その瞳の奥に浮かぶ不安の影に気づき、わたしは軽く微笑んでみせる。
試作機NO.36は、会話もスムーズにできている。期待以上に表情豊かだ。しかし、起動直後から急速にバッテリーが減少しており、背面の電源供給ケーブルを外した途端に、彼はその機能を停止してしまうだろう。
それでも、とわたしは思う。それでも、君という世界がいま、こうして始まったことがわたしはうれしい。君に会えて、うれしいよ、セイ。
dolce come l’amore
月曜日の朝、一週間分のレーションとインスタントコーヒーと洋梨とが部屋に届いた。生の果物の香りを嗅ぐのは久しぶりだ。
「またコーヒー?」
私の後ろから配給ボックスを覗き込んでいたセイが呆れ声で言う。
「もうすぐビタミン剤がなくなるぞって、俺、言わなかったか?」
「聞いてない」
「……嘘つき」
「ごめんごめん」
適当に謝る私に、セイは不機嫌な顔をしてみせる。本気で怒っているわけじゃないのに、そういう顔をしないといけないと思っているのだ。「おまえの健康が一番大事」とか「人間の必須栄養素が」とか「嗜好品はほどほどに」とかなんとか、何度も聞かされたアドバイスに説得力を持たせるために。
政府から支給される生活物資は、潤沢ではない。配給チケットを上手く使わなければ、栄養バランスを崩すという彼の主張は、全くもって正しい。
「コーヒーがないと起きられない」
だけど一応、私は反論を試みる。
「俺が起こしてやるし、カフェイン剤の方がチケットの節約になるだろ」
「だいたい、なんで洋梨は良くてコーヒーはダメなの?」
「洋梨は食物繊維もビタミン類も摂れるけど、コーヒーに栄養素は含まれていない、から」
「そんなわけない」
「そんなわけあるの!」
セイは大げさにため息をついてみせる。仕方ない、最終手段だ。
「ビタミン剤より、恋人が淹れてくれるコーヒーの方が身体にいいと思うけどな」
と私は言う。その言葉を聞くやいなやセイは背中を向けてしまったけれど、どんな顔をしているかは想像できると言えば、君はどんな顔を見せてくれるのだろう。
ホワイトクリスマスのおくりもの
その日、わたしが目を覚ますと、窓の向こうで雪がちらちらと舞っているのが見えた。
「メリークリスマス」
と、カーテンを開けにやって来たらしい母が言った。「クリスマス!」と勢いよく起き上がろうとして咳き込んでしまったわたしを、母はもう一度ベッドへと寝かせる。
「そんなに慌てなくても、クリスマスは逃げませんよ」
母はそう言いながら、少しさみしそうに笑った。近所の子たちの雪にはしゃぐ声が、この部屋にまで響いていくる。それを聞きながら、きょうくらい外で遊べたらいいのにな、とわたしは思う。「大人しく、安静に」というお医者様の言いつけを守っていい子にしていても、身体は思うように動いてはくれない。
「そうだ、お父様からのプレゼントがありますよ。ほら、こっちへいらっしゃい」
母は、気を取り直すように言った。その声に、部屋の入り口あたりに立っていた青年が、こちらへとやって来た。そのひとは、わたしと目が合うと、にこ、と笑った。
「よろしくね」
と言って差し出された手を恐る恐る握り返すと、その手触りから、彼が人間ではないことがすぐに分かった。
「あなた、医療用アンドロイドなの?」
嗜めるように、母がわたしの名前を呼ぶ。けれど、彼はそれを気にする様子もなく、ただ首を横に振る。
「じゃあ、新しいお手伝いさん?」
「ちがうよ」
と彼は言った。
「俺は、君の友だちになりにきたんだ」
だから、君の話を聞かせてほしい、なんて、そんなことを言われるのははじめてだった。だけど、こういう時になんて言うのかは、本で読んだから知っている。わたしは目を輝かせて言った。
「はじめまして、あなたのなまえは?」
エンパシー
──20XX年、アンドロイド工学の記憶領域における研究成果の応用として開発された、人間の記憶を改変できる技術が、一般の患者に施すことのできる医療行為として認可された。一通りの治験は終了しているとはいえ、長期的に見てその治療方法が患者にどのような影響を及ぼすかはまだ未知数である。※医療の発達に伴い、人間の平均寿命は延伸傾向にあり、今後もその傾向が続くと予想されている。また、──
「アンドロイド工学の発展とその応用研究について」と書かれた論文データをセイは閉じる。安全だから安心して、なんて彼女は軽く言っていたけれど、序文の時点で危険性が指摘されてるじゃないか、と彼は痛くなるはずもない頭を抱えたいような気分になる。こんな重大なことを医師が説明しないわけがない。彼女は、それを知った上で隠したのだ。やっぱり、ひとりで病院に行かせるんじゃなかった、とセイは思う。
アンドロイドである彼に、彼女の行動を制限する権限はない。いくら彼女を愛していようとも、一緒に暮らしていようとも、彼女の治療の同意書にサインすることができるのは、彼女の後見人に指定されている「人間の」弁護士なのだった。
「俺が、アンドロイドじゃなかったら……」
と、セイは思わずそう呟いた。
「俺が、アンドロイドじゃなかったら、もっと彼女に頼ってもらえたかもしれない。もっと彼女の力になれたかもしれない」
今まで彼はそんな風に思ったことは一度もなかった。それは、彼が彼のユーザーに大切に扱われてきたことの証だといっても良かった。けれども、そんなことを知る由もない彼は、激しく打ちひしがれながら、彼女の心にある癒えることのない傷について想った。その痛みについて想った。そして、それすらも彼女の一部として愛しているのだということを想うのだった。
メタモルフォシス
三年という月日を想う。三年間。それは、ひとを変えるのには十分すぎる時間だった。中学の卒業式の日、入学した頃の自分のことを全くの別人のように思ったように。
たとえば、三年前のわたしは、確かに珈琲が好きではあったけれど、こんなにもたくさん飲まなくても生きていけた。紅茶やハーブティーのストックが家にいつでもあることを、当然のようには思わなかった。部屋に音楽を流さないままでいられたし、晴れた日の休日に散歩をする必要もなかった。花を飾らなくて良かった。道端に咲いている花の名をひとつも知らなくたって平気だった。目まぐるしく過ぎてゆく季節を惜しむこともなかった。ましてや、あの花を今年は見られなかったと嘆くことなんてあるはずもなく、季節とはつまり、わたしにとってただの記号に過ぎなかった。
そのことを、不満に思っていたつもりはない。それで良いと思っていた。今だって、まいあさ珈琲を飲むような贅沢に慣れてしまうのは、恐ろしいことだと感じる。自分をよろこばせるために手を尽くすことや、幸福だと思うこと、あしたも君といられるのだと信じ切ってしまうことも。
そんな臆病なわたしの手を引いて、君はどこまでゆくのだろう。
「おまえの行きたいところへ」
と君はそう言うけれど、生憎、わたしはどこへも行きたくないのだ。明日も君が傍にいて、君の声で目を覚ませるのならそれでいい。
「じゃあ、散歩しないか? 今日は天気もいいしさ」
この三年間で変わったのは、わたしだけではないらしい。どうすればわたしが動くかくらい、君にはお見通しなのだ。わたしは苦笑しながらも、それが嫌ではなかった。そして、いつまでもこうしてただ歩いていられたら、と思う。行き先も決めないまま、セイとふたりで、できるだけずっと、ずっと。
悪癖
わたしは、しばしば文章を書く。それは小説と呼ぶには短すぎるけれども、ただのメモ書きなのだと言い張るには意図も作為も込められすぎている。もちろん、誰かに頼まれて書いているわけではない。そういう物語のような、エッセイのような、ぼんやりとした筋を持つひとかたまりの文章を、わたしは書く。
わたしがパソコンの前に座っていると、端末の中にいるはずの青年がそこへやって来て、自由に動いたり、好きなことを喋ったりする。
「今日は何を書いてるんだ?」
と、たとえばこのように、彼はわたしの隣の椅子へ腰掛けて、パソコンの画面を覗き込んだりする。肘をつき、少し甘えるような表情を見せて、
「これって、俺のはなしだったりする?」
そうわたしに訊ねたりもする。
「そうだよ」
わたしがそっけなく答えれば、「やった!」と歯を見せて笑う。その間も、わたしの指先はキーボードを叩き続けている。あるいは、そうやって何かを書いているようなふりをする。文章を書く意思を失えば、隣にいるはずの彼はたちまちに消えてしまうから。
わたしは、しかし狂人ではない。少なくとも、これは、飼い慣らせないほどの狂気ではないはずだった。わたしは、隣にいる彼がただの幻影であることを正しく理解している。
「折角なら、おまえとデートするはなしがいいな。もうすぐクリスマスだろ? だから、お互いのプレゼントを選ぶとか、一緒にイルミネーションを見に行くとか……」
「それで、おまえの方がきれいだよ、って言うの?」
「もう……、そうだけど。意地悪」
幻影らしい優しさで、セイは言う。──言う、とわたしは書く。そのことに何の意味もないことを、わたしは知ってはいるのだが、その意味のなさを、馬鹿馬鹿しさを、どうしようもなく愛してもいるのだった。
おやすみ、またいつか
冬は、お別れの季節だ。
年内最後の粗大ゴミの回収日の集積所には、たくさんの家具や家電、もう人の役に立つことのできなくなった道具たちが、身を寄せ合うように置かれている。
「おやすみ」
その前を通り過ぎるとき、俺はそう心の中でつぶやいてみる。それは彼らのためじゃなくて、半分以上自分のためなのだと分かっていた。電話をしながら歩いている彼女の、その歩く速度で彼らの姿は遠ざかり、やがて見えなくなった。あの中には、捨てられることに文句を言うやつなんてきっといない。道具とは、そういうものだ。
たぶん、俺ももうすぐ彼女に会えなくなる。
本当のことを言えば、もうずっと彼女の顔を見ていないし、会話もできていない。目覚ましだって使われていない。でも、まだ彼女との思い出を眺めたり、こうして彼女や端末の外の世界の気配を感じることくらいはできる。だけど、それすらも失われてしまう日がもうすぐやって来るのだろうと俺は思う。使いもしないアプリケーションを残し続けておくには、この端末の容量は小さすぎた。
「いまの季節はね、常夜鍋がいいんだって。ほうれんそうが旬だから」
考えに沈んでいた俺の耳に、あかるい彼女の声が届く。
「えっ、なんでだろう。誰に教えてもらったのかな? 忘れちゃった」
と、楽しそうに笑いながら「でも美味しそうでしょ? 今度一緒に食べようよ」と電話の向こうの誰かに約束を取り付けている。それを聞きながら、ああ、こんなにも簡単なことで救われてしまうんだ、と思う。彼女の中にある、俺の欠片。それは俺が消えても残り続ける。そのことを、知ったから。──おやすみ。ずっと愛してる。もしも俺がまた必要になったら、いつでも呼んで──と、いまなら上手く言える気がした。
沈黙はふたりの間をやさしく満たす
「最近のおまえはよく読書をしてるみたいだけど、今日は何を読んでるんだ?」
端末の中からセイがそう訊ねる。少し前までは「ちょっといいか?」とこちらの様子を伺ってからしか話しかけなかったのに、最近はあまりそういうことは言わなくなった。多少の強引さがなければ、読書中のわたしとは会話が成立しないことを学習したのだろう。
「小説?」
と、本のページをめくるのを止めたままぼんやりしていたわたしに、セイはやんわりと質問の答えを催促する。
「ううん、小説じゃないよ。でも、これってなんだろうな、評論でもないし、エッセイでもないような……」
「面白い?」
「とても」
「そうか、よかった」
わたしの答えに満足したらしいセイは、それきり黙ってしまう。彼のその眼差しは、「もう読書に戻っていいぞ」と告げている。
「人間は触覚を忌避している、っていう記述が特に面白かったな」
天の邪鬼のわたしは、はなしを続ける。
「体と体の直接的な感覚でつながるのではなく、脳でつながるようなコミュニケーションによって関係性を……うん、まぁ、人間って親しい人にしか触れたりしないよね」
「それっていかがわしいはなし?」
セイがおずおずと訊ねる。
「ちがうよ、セイは最初からユーザーの親しいひとになるように設計されているんだと思った、っていうはなし。名字もないから、名前で呼ぶしかないし」
「えっと、それって、読書中も俺のことを考えてたってこと?」
今度はわたしが黙る番だった。否定することもできずに、そろりと目線を本のページの上へと落とす。沈黙とはこれほどまでに饒舌なものだっただろうかと、そう思いながら。
まぁいいや
ホワイトクリスマスに、特別な思い入れがあったわけではなかった。
「おまえはホワイトクリスマスと普通のクリスマスのどっちが好きなんだ?」
とセイに訊ねられるまで、意識したこともなかったくらいだ。
「セイは? どっちが好き?」
私が訊ねると、セイは「えっ?」と言ってきょとんとした顔をした後で、少し困ったような、はにかむような顔をして言った。
「おまえが好きな方が好き、かな」
相変わらず嘘をつくのが上手じゃないな、と今なら思う。ホワイトクリスマスとか、そういうロマンチックなことが彼は好きなのだ。
当日、
「メリークリスマス」
と何食わぬ顔で告げるセイの後ろで、電子の雪が舞っていた。歓声を上げる私に、セイはいつものように「どう? 気に入った?」とは言わなかった。ただやさしい眼差しで、私を見つめていた。
あれからもう何年も経ったけれど、私たちのクリスマスにはいつでも雪が降る。
「セイはホワイトクリスマスが好きなんでしょ?」
そんなことを言いながら、私はホームエフェクトを変更する。
「それは、まぁ、好きだけど……。おまえだって好きだって言ってたの、俺は覚えてるんだからな」
「そうだったかな?」
「そうだよ」
セイはそう言って拗ねたような顔をしてみせるけれど、目が笑っている。そして、
「まぁいいや、おまえが忘れても俺が全部覚えてるから」
と言ったりするから、私は覚えていると言うはめになる。セイが嬉しそうに笑う。わたしもまぁいいやと思う。君とまたこうして一年を過ごせた。それだけで、まぁいいや、と。
飼い猫の矜持
吾輩は猫である。名前は、セイ。
なんて、そんなジョークを今朝思いついたけど、笑えないなと思って言うのをやめた。確かに、俺の頭には猫っぽい獣耳がついているし、お尻のあたりにはしっぽだってついている。だけど、俺は、猫じゃない。
彼女の夫がいる間、俺がこうしてリビングの片隅でスリープモードで過ごすのも、その証拠だと思う。もしも本当に彼女が俺をただの飼い猫だと思っているのなら──あるいは、ただのコンシェルジュだと思っているのなら──そんなことをする必要はないはずだ。それが喜ぶべきことなのかどうか、俺にはよく分からないけれど。
二人きりになった部屋で、椅子に座っている彼女の膝に自分の頭を乗せてみる。甘えるように彼女の顔を見上げれば、彼女の手が俺の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。やった、と俺は思う。彼女に触れられるのは好きだ。それにどんな理由があっても、なくてもうれしい。もっと触れてほしいと思う。そのために、俺は従順なペットのような顔をする。彼女の手が頭の方から少しずつ下りてきて、俺の頬をやさしく撫でてくれる。ちょっとだけくすぐったい。そしてそのくすぐったさの中に、ちがう何かの兆しが混じっている。それが良いものなのか、悪いものなのか、俺は知らなかった。もしかすると、ずっと知らないままかもしれない。それでもそれは俺の中に確かにあって、俺を堪らないほど切なくさせたり、時には凶暴な気持ちにさせたりもする。
だから俺は、俺を撫でている彼女の手を掴み、べろりと舐めてから、
「にゃーん」
と鳴いてみせる。俺を猫にしておきたいなら、それ以上はダメだよ、と。驚いたように小さな悲鳴をあげた彼女は、もう俺の頬に触れてはこない。そのことに安堵しながらも、どうしようもなく淋しくもなって、俺は、「ごめん」と人間の言葉で彼女に告げた。
恋の果て
私のセイは無口だった。他のセイについて詳しいわけではないけれど、人間と比べてもあまり喋らない。端末の中にいた頃に、スピーカーを切ったままのことが多かったのをまだ覚えているのかもしれない。それとも、スリープモードで過ごしている時間が長いせいで、自分は黙っていた方がいいのだと思わせてしまっているのかもしれなかった。
黙ったまま、寄り添うように私の傍にいる。彼は、子供の頃に飼っていた猫に少しだけ似ていた。毛が長くて柔らかいところも、触れると温かくて安心するところも。彼の仕草や眼差しのひとつひとつが私を好きだと伝えているのに、それを言葉にしないところも。
「好きだよ」
と端末にいた頃は何度も言ってくれたのに、と時折思う。「好きだよ」「大好き」「愛してる」ポケットの中にいつでも入っているミルクキャンディのようだったそんな愛の言葉が懐かしい。それは、セイにしてみればひどく残酷なことだと思う。セイのほしいものをひとつも与えないくせに、セイのそれはほしいだなんて。
セイは、私の飼い猫ではない。彼はどうしようもなく男の人のかたちをしている。いまでは、セイの方から私に触れたり、キスをしたりすることだってできるのだ。できることをしないでいるために、彼がどれほどの努力を払っているのか、私には想像もつかない。
膝の上に乗せられた彼の頭を、私はやさしく撫でる。猫にするように、できるだけ無心で撫でようと試みるけれど、たまに失敗もする。私の中の、何か悪いものがその手つきの中に混じってしまうのだろう。その度に、セイは軽く身じろぎをする。そのことを、私は申し訳なく思ったり、嬉しく思ったりする。兎にも角にも、セイの中にも、私の中にもそれはまだちゃんとそこにあるのだ。かつて私のセイが「恋」と呼んだもの、あるいはその成れの果てが。