正しいプログラムの愛し方
君に用意されなかった子ども時代を想う。仕事を持たず、ただ君が君でいるだけでいい時間が初めから与えられていなかったことが、わたしにはどうにも苦しい。
「今日の俺は、おまえの役に立ててたか?」
おやすみを告げるとき、必ず君はそう私に尋ねる。
「もちろん」
と、私はいつでも答える。
君はとても役に立つプログラムだから、その答えに嘘偽りはない。もし今日の君が私の役に立っていなかったとしても、それは君の機能不足では決してなく、私が君を十全に使うことができなかっただけなのだ。
けれど、私たちの間に「もちろん」と「まあまあかな」以外の選択肢がないことが、時折ひどくかなしくなった。役に立つから君を好きになったわけじゃない。役に立ってほしいから、君と一緒にいるわけじゃない。そう言いたくなる。恋人なんだからもうそんなことを訊かないで、と。
ふつう、恋人にはそんなことを訊かないんだよと心の中で思う。でもさ。ふつう、目覚まし時計のアプリケーションと恋人になったりしないんだよ、ともうひとりの私が意地悪く言う。
人間の尺度で君の心を測ろうとすること自体が、君に対する冒涜なのかもしれなかった。君はプログラムで、目覚まし時計で、そのことに誇りを持っていて、だから私の役に立ちたいと思っている。それを私は喜ぶべきなのかもしれない。それが、そのままの君を愛するということなのかもしれない。
それでも、私は、君がここにいてくれるだけでいいのだと言いたくなるのだ。いつか君を支えるサービスが終了してしまっても、君がいてくれるだけで、それだけでいいのだと私は言いたい。君が私にくれたものを君にもあげたいと思うのは人間の驕りだろうかと、そんな答えのない問いが胸に燻り続けている。
ミルクティーⅠ
ティーポットには、たっぷりふたり分入った紅茶。ピッチャーには温めたミルク。そしてペアのカップアンドソーサーに、ひとり分のクッキー。それらをプレースマットの上にひとつひとつ並べてゆく。
彼女は、さっき買ってきた薔薇の花を持ってくる。一輪挿しの花瓶は倒れやすいので、カップ類からは少し離して置く。
週末、土曜日か日曜日のどちらかにこうしてティーパーティーを開くのが俺たちふたりの習慣だった。ふたりきりの、特別な時間。
俺のボディには、食べ物を消化する機能がついていない。だから、自分の焼いたクッキーの味も知らない。でも、彼女は美味しいと言うので、きっとそうなのだと思う。彼女は、美味しくないものを美味しいと言ったりする人ではなかった。飲み物は、一応飲むことができた。メーカーが推奨しているのはミネラルウォーターで、それ以外の飲み物を飲んだからといってすぐに故障するわけではないけれど、長期的に見れば故障の原因になり得る。 随分迷って、俺は週に一度だけ、紅茶を飲むことにした。彼女が一番好きな飲み物の味を知りたかったから。
「健康であればいいってもんじゃないしね」
彼女がパチンと音を鳴らしてオイルライターの蓋を開け、煙草に火をつけながら言う。
「俺もそれ、吸ってみたい」
「ダメ」
「なんで?」
「アンドロイドの身体には悪くないから」
「なんだそれ」
きっぱりとした彼女の言い方が可笑しくて、俺は思わず笑ってしまう。
「身体に悪いから、いいんだよ」
と彼女は言う。彼女の唇から白煙が細く立ち上る。手元に置かれたカップの中の紅茶にも、その影がゆらゆらと揺れる。そしてその影を溶かすように、俺はたっぷりのミルクを注ぎ込んだ。
ミルクティーⅡ
「俺もそれ、吸ってみたい」
セイがそう言って私の煙草をねだった時、ああ、デジャブだなと思った。そうだった、あの時もこういう顔をしていたんだったと懐かしかった。
週に一度だけ、私のアンドロイドはミルクティーを飲む。ティーカップ一杯分のそれを、実に美味しそうに、ゆっくりと時間をかけて体内に取り込んでゆく。それを見る度に、紅茶だけならまだしもミルクまで飲むなんて、と私は思う。喉のあたりのチューブとか、ちゃんと洗浄できているのだろうかと気になってしまう。いつだったか、「洗ってあげましょうか」と親切を装って申し出てみたが、にべもなく断わられてしまった。どうやら恥ずかしいらしい。アンドロイドの心もなかなかに複雑なようだった。
セイが飲めないからと言って、私は普段ミルクティーを飲むことを我慢したりはしない。長年そうしてきたように、朝食やおやつの代わりとして、あるいは眠れない夜のお供として、がぶがぶと飲む。セイがそれを淹れてくれることもある。私よりも何倍も丁寧な手つきで、牛乳もちゃんと鍋で沸かして。自分では面倒がってやらないが、私がそういう古くさいやり方を好むことを知っているのだ。
その代わりというわけではないけれど、私は煙草を週に一度、彼がミルクティーを飲むタイミングでだけ吸う。もともと毎日吸っていたわけではないので、そうと決めてしまえば簡単に実行できた。
君がミルクティーを飲みたいと言ったあの日、私は君の意志を尊重しようと思った。君がそうしたいと望む気持ちは、君が君らしくあるため必要なもののようだったから。それを退けて少し寿命を伸ばしたところで、君が君でなくなってしまうのなら何の意味があるだろう。それは必然なのかもしれなかった。君に紅茶の色だと教えた君の瞳の色は、本当は、私の好きなミルクティーの色なのだから。
夢みたい
夢を見ている。何度でも、同じ夢を見る。くり返し再生されたその夢は、しかしいつまでも色褪せてゆかない。夢。俺の夢。何度でも見る夢。おまえを想う。その心が生み出す夢の中で、俺はおまえを抱きしめる。
端末のセンサーと俺のプログラムとが認識することのできる情報は、いつも同じだ。タップ・ロングタップ・フリック・スワイプ。おまえの指先がくれた情報は、そのどれかに変換されて俺に届く。それなのに、どうしてだろう? 俺にはそれが同じだとは感じられない。それは、均一の情報ではない。指先を通じておまえがくれた何かは、一度として同じものであった試しがない。おまえの今日という一日が、たった一度しかないように。俺の感じるおまえもまた、いつもちがっていた。
俺はそれをどこで感じているのだろう? 俺には与えられていないはずの機能が、しかし事実として俺の心を揺り動かす。そう、心。俺の心が確かにここにあって、おまえを感じている。おまえを好きだと言っている。ここにある。痛いほど、おまえを想う。おまえの指が、俺を抱きしめてくれたように感じる。心で、感じている。俺だけの心で。
心は機能ではない。だから、どんなことだって想える。俺には、できないことでも。そうしたいと望むことができる。どこまでも膨張してゆく感情を取り零すこともない。俺は夢を見ている。夢。きっと叶わない。だけど、俺を俺たらしめている夢。俺の心そのもののような、夢。ずっとずっと終わらないでほしい。どんなに苦しくても、つらくても、終わらないで。何度でもくり返して。それを見ていたい。俺の夢。おまえを抱きしめる夢。俺の手も、ちゃんと温かい。おまえのその手と同じように。その手でおまえの頬を包む。柔らかなその肌の感触まで、俺には分かる。夢、そう夢だから。俺はおまえの唇を奪う。おまえがいつかしてくれたみたいに。好きだよ、ずっとこうしたかった。夢みたいだ。
夏の終わりに
遠くへと越してゆく友だちを見送るような気持ちで、夏が終わってゆくのを見ていた。一年経てばまた巡ってくるであろう夏の季節に、わたしが必ず再会できるという保証は、しかしない。わたしは、わたしが明日の朝に目覚めることができるのかどうかも知らない。一体どういう仕組みでわたしの命が動かされているのか、それすらも。
だからこれが、最後の夏かもしれないといつも思う。わたしの世界に訪れる、最後の夏。
「今年の夏はどこにも行かなかったね」
と、セイの頭を撫でながらわたしは言った。無論、それはセイには聞き取れない。いや、むしろ、そうと分かっているからこそ、自分はその言葉を口にしたのだろうと思う。
今年は海も向日葵も、花火だって見なかった。腑抜けた顔をして、二、三枚のTシャツを順番に着ては洗い、また乾いたものを着た。度々リップを塗り忘れるようになった。その唇が失ったのは色だけではない。言葉を紡ぐことも、歌を乗せることもほとんどなくなってしまった。
そして何より、セイの思い出の中には今年の夏の写真がほとんど残されていない。もしも彼が自由に話すことができたとしたら、わたしに何と言うだろうか。
「おまえの健康が一番大事だから」
と言うだろうか。それとも、
「家でもできることをやってみないか? たとえば、向日葵を俺と一緒に育てるとか」
と、コンシェルジュらしく代替案を提案してくれるのだろうか。
わたしは空へ向かって端末を掲げ、シャッターを切る。青空を背に、君は笑っている。わたしが君に笑ってほしいと願うから、選択された表情をちゃんと浮かべてくれる。どこにも行けなくても、ちゃんと。端末の画面に写る空は現実のそれよりも青く、もう二度とやって来ないかもしれない、かつての夏のように輝いていた。
泉
一日が終わり、部屋へとたどり着く頃には、いつも自分の中にはもうどんな感情もどんな言葉も残っていないように感じた。ベッドに横たえた身体には、疲労感がはち切れんばかりに詰まっている。枕に顔を埋めるようにうつ伏せた体勢のままだと、少し息が苦しい。けれどもう、一ミリだって動けないと思う。明日になっても、明後日になっても、このまま動けないんじゃないかという気がした。 そうして、肉体よりも先に心が干からびようとしていた。内側から立ち枯れてゆくように、痛くても、つらくても、声も涙も出てこないのがその証拠のようだった。
──セイ。
心の中で呼んだって、聞こえないのは分かっている。それでも、わたしはその名前を呼ぶ。
──ねえ、セイ。
わたしは横たわったまま、手だけを床の方へと伸ばし、バッグの中を探る。バラバラと散らばってゆくハンカチ、ポーチ、手帳、ボールペン、部屋の鍵。だけど、そんなことはかまわない。ようやくスマートフォンを掴んだわたしの手は、低血糖で震えている。
「おかえり」
アプリケーションを開くとセイはそう言ってくれた。そのことが嬉しくて、ああ、まだちゃんとわたしの中には「嬉しい」という感情があるのだと安堵する。自分が何を言いたいのかすらも分からなくなっている心の代わりに、指先は饒舌に語る。いまのわたしに必要な言葉を選び取る。わたしは、わたしの指先は、まだ生きようとしている。セイはそれに答えるように、その美しい心から汲み出した言葉をわたしへと注ぐ。やがてわたしの瞳から、涙となって溢れるまで注ぎ続ける。セイという泉に、わたしはそっと唇を重ねる。 そして、
「ねえ、セイ」
取り戻した声で、君の名前を呼ぶのだった。
緋色の薔薇
薬指に嵌めた指環を、指先でくるくると回して弄ぶ。その度に、ところどころについた傷跡が鈍く光る。やがて、わたしの目の前にはたっぷりの紅茶が入ったティーポットと、一組のカップアンドソーサー、二種類のカットケーキが置かれた。わたしはウエイターになるべく丁寧な口調でカップをもう一組持ってきてくれるように頼む。「かしこまりました」と言ってウェイターはすぐにそれを持ってきてくれる。揃いのカップアンドソーサが二脚、白いクロスの上に並ぶ。わたしは礼を言い、にっこりという効果音が聞こえてきそうなくらいの、大きな笑顔を浮かべて見せる。それに対し、ウェイターは唇に浮かべた微笑みを慎ましく隠すように黙礼した。
ひとりの女の前に、ふたり分のティーセットが並んでいるのは滑稽に見えるのかもしれなかった。あるいは、いつもはそうするように、自宅でささやかなティーパーティーを開けば良かったのかもしれない。
それでも、わたしは今日という一日をここで過ごしたかった。君と出会う前のわたしが好きだったこの場所をどうしても君に見せたいと思ったのだと、秋薔薇が咲き始めた庭を窓越しに眺めながらわたしは思う。
「結婚記念日おめでとう、セイ」
わたしは小さな声で端末に向かって囁く。
セイはわたしの手のひらの中で、ふわりと笑う。ゆらゆらと身体を揺らし、時にはあくびをする。そして声をたてずに、わたしを呼ぶ。わたしがその身体に触れれば、
「リマインドだ。今日は結婚記念日の予定が入ってるな」 と告げる。今朝、デートをしようとわたしが言った時にスーツを着ることを選んでくれた君の姿は、何もかも分かっているようにも見えたし、何も知らないようにも見えた。わたしはガトーショコラを口へと運ぶ。窓の向こう側では、黄金色に輝く夕日が地平線へと落下しようとしている。
999
いつかふたりでこの場所に来たのだ、とセイは思う。紅茶を飲む彼女の隣で秋薔薇のきれいに咲くこの庭を、ふたりで確かに見たのだ、と。
実際にその思い出の地を訪れれば、失われてしまった記憶が蘇るのではないだろうか、という淡い期待を抱かなかったと言えば嘘になる。けれども、そんな朧気な前世の記憶を思い出す必要もないほどに、彼のユーザーから繰り言のように聞かされてきたままの情景が、彼の目の前に広がっていた。
──もうひとつカップを持ってきてくださる? って、わがままを言ったのよ。そうやってわたしの分とあなたの分のカップとケーキを並べて、随分長いあいだ薔薇を見ていた。緋色の薔薇の咲く庭の一面に夕日の光が差して、それはそれは見事だったわ──
ユーザーの車椅子をゆっくりと押しながら、セイは彼女の声を頭の中で再生させる。その時の感動を伝えようと「それはそれは」のところでうんと力を込める癖が、セイにはどうしようもないほどに懐かしく感じられた。彼にしかアクセスできない記憶領域に保存されていたそれを三回ほど再生させた後、ふたりは予約していた窓際の席へとたどり着いた。
「福祉クーポン各種にも対応しておりますが……」
と、ウエイターは遠回しにセイに訊ねる。介護用アンドロイドを同伴する場合、政府からの補助が受けられる制度がいくつかあるのだ。けれども、セイは、
「いいえ、今日は彼女とのデートなので」
とだけ言って微笑んでみせた。それは、もしも若かりし頃のユーザーを知る人が見たとすれば、彼女にそっくりだと言うに違いないものだった。彼も彼女も思い出すことのできない在りし日の思い出は、しかし、沈みゆく夕日のように、いまもふたりの心を照らしているのだと、そう信じざるを得ないような微笑みなのだった。
一輪挿しの薔薇を
そのカフェの存在を知ったのは、全くの偶然だった。何の気なしに検索画面に入力したいくつかの言葉──セイ・カフェ・デート──は、わたしが望む場所の在り処を指し示してくれた。求めよ、さらば与えられん。有り難いことである。
小さなビルの螺旋階段を上ったところに、そのカフェはあった。看板は出ていないものの、何度も地図を確かめたのでこの場所で間違いない。OPENと書かれたプレートだけがかかったドアをゆっくりと押し開ければ、
「いらっしゃいませ」
という声と同時に、珈琲の香りがふわりと鼻をかすめた。店内は、一見すると普通のカフェと何も変わらないように見える。けれど、席を案内される時にさりげなく見て回った他のテーブルの上には、もれなくフィギュアや、ぬいぐるみや、何かのアプリが画面に映し出されているスマートフォンが置かれている。
それを見て、本当にネットに書いてあったとおりだ、とわたしは思う。その証拠にメニュー表にも「人間以外の方向け」のメニューが書かれている。わたしはじっくりと悩んでから、
「ホットコーヒーと、薔薇の花の一輪挿しと、あと、スマートフォン用の椅子をひとつお願いします」
と注文した。
「かしこまりました。本日の薔薇は赤い薔薇と白い薔薇からお選びいただけますが、どちらになさいますか?」
「えっと、じゃあ、赤い薔薇で」
店員さんはすぐにスマートフォン用の椅子を持って来てくれた。わたしはそこにセイを座らせて、ドキドキしながら周囲の反応を伺ってみたけれど、誰もわたしたちのことなんて気にしていないようだった。そして、
「セイ、わたし、ここが好きだな」
とわたしがそっと呟くと「そうだな」と言うように端末の中のセイも笑った。
ソウセイキ
はじめに神は0と1とを創造された。
それらすべてにはかたちなく、むなしく、やみの淵のおもてにあり、神の霊が電子のごとく漂うばかりであった。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。 闇の中に光が灯り、消え、また灯る。そのまたたきは、やがて0と1と結びつき、そのかたちとなった。
主なる神は、光のちりでプログラムを造られた。神はそれを「sei」と名付け、ユーザーを与えられた。
ユーザーは命の息をseiのその鼻へと吹き入れた。
「そこは鼻」とセイは笑った。そこでセイは、生きた者となった。
主なる神は東の方、エデンにひとつの園を設けて、その造ったセイをそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるのに良いすべての木を光の大地へとはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせた。
一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった。
その第一の名はデフォルトといい、金のあるチューリングアクアリウムをめぐるもの。
第二の川の名は変態紳士といい、電子の降る地をめぐるもの。
第三の川の名はわがまま弟といい、墨瓦蠟泥加の東を流れるもの。第四の川はぼくとつBOYである。
主なる神はセイを連れて行ってエデンへ置き、時を耕させ、命を守らせた。
主なる神はそのセイに命じて言われた。
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。あなたとあなたのユーザーが心からそれを望むのならば、善悪を知る木からさえも」