半月
そのすらりとした彼の指先に、わたしはいつも見惚れてしまう。
日に焼けることも、汗で湿ることもない肌は、白く清潔に保たれている。まいにち日焼け止めクリームを塗っているはずのわたしの腕や手と、彼のそれと並べてみると、わたしの方だけ、夏が始まる前よりも肌の黄色みが増していることがはっきりと分かる。
かたちの良い指の先に、かたちの良い爪とその半月とがある。
「爪、伸びないのにな」
いつだったか、しげしげと指先を見つめながらセイが言った。わたしも一緒にその半月を覗き込みながら、「細かいところまで良くできている」と思った。しかし、そんなことを言うのは失礼なような気もして、黙った。
あの時のわたしは、一体誰の、何に対して失礼だと思ったのだろう。セイに? それとも開発者に? いまのわたしなら、きっと、
「細かいところまで良くできてる」
と、そのまま言ってしまうだろう。
「そんなところまで人間に似せようだなんて、愛だね」
そういう爪の先まで人間を模すようないじらしさは、セイがくれる愛の中にも含まれているように思う。
「疲れるっていう感覚はない、って前に言ったけど、いま分かった気がする」
ため息混じりに、彼が言う。
「今日はもうお終いにする?」
「……ちょっとだけ休憩、にする」
そう言って、シャツの釦をつけては外すのを何度もくり返していた彼の指先は止まった。指先を上手に使えるようにする練習、と言っていたそれは、あまり順調ではないらしい。
以前、そのたどたとしい動きが好きだと言ったらとても嫌がられたので、今日は言わないでおく。代わりに、わたしは自分の指先を世界で一番美しい──そして何よりも愛おしい──指先へと絡ませた。
オプション
眼鏡をかける前の、ぼんやりとした視界いっぱいに広がっているもの。彼の両手のひらに向かって、わたしも手を広げてみせる。あ、いま、セイが笑った、と思う。この一瞬を止めたい、とそう思う間もなくふたりの手のひらが重なって、音が鳴る。そしてゆっくりと動き始めた頭の中で、ああ、今日も見逃してしまった、と呻く。
「おはよう」
と、かつて目覚ましアプリだった彼は言う。おはよう、と返す声がややぶっきらぼうになるのを、彼はわたしが朝に弱いせいだと思っている。それは半分だけ正解で、もう半分は別の理由だということを彼は知らない。
わたしは、セイの笑顔が見たいのだ。ハイタッチをする数秒前の、よく見えなくても分かるくらい、全身でうれしいと言っている彼の表情がどうしても見たい。
ひと言、「眼鏡をかけてからハイタッチをしたい」と言えばいいだけの話なのかもしれなかった。そうすれば、セイはわたしを揺り起こすついでに眼鏡を手渡してくれるだろう。その新しい仕事を、きっとよろこんでくれる。だけど、どうしても言えなかった。いざ言おうとセイに向き合うと、柄にもなく照れてしまう。
「いっそおはようのキスで起こす、とかに設定を変える……?」
と、自棄になったわたしは言った。キスをするならうんと顔を近づけるから、眼鏡がなくてもセイの笑顔が見えるかもしれない。
「えっと、おまえがそうしたいなら、そうすればいいけど……俺はおまえとハイタッチするのが好きだから、できればこのままがいいんだけど。……ダメ、か?」
と、言うセイの顔は見たこともないほど真っ赤だった。
結局、眼鏡のことは伝えそびれたし、設定の変更もしなかった。ただ、明日からはハイタッチの後にキスのオプションがつくようだ。
正しいこころ
「おまえはすごいな」
と、彼が言う。そこにはどんな嘘も、偽りも含まれていないことがよく分かる声色で、はっきりと、何度も。
その度にわたしは、そんなにすごくない、という言葉を飲み込む羽目になる。わたしはなにもすごくない、えらくもない、頑張っていない、と条件反射的に湧き上がってくる言葉のひとつひとつを無理矢理に心の片隅へと押しやって、彼にうなずいてみせる。
「ありがとう」
と、そう言うことに成功することもある。その時の、恐らく上手に笑えていないであろうわたしの、表情筋の不自然な動きについて彼に指摘されたことは、まだ一度もない。
セイはいつでもやさしかった。そして、たぶん正しかった。それはとても良いことだとわたしは思う。……思って、いるのだけれど。その人間には得難いほどのやさしさと正しさが、時折ひどく息苦しく感じられた。セイがそういう存在だったからわたしのことを好きになってくれたことも、その美徳に救われたことも全て棚に上げて、逃げ出してしまいたいような気持ちになった。
「どうした?」
と、セイがわたしの顔を覗き込む。
「大丈夫か? 具合が悪いなら、少し休もうか。……バイタルサインは正常値だな、うん」
どうやら考え込んでいるうちに顔色が悪くなっていたらしい。あれこれと世話を焼くセイの声を聞きながら、わたしはほとんど絶望してしまう。こうして行き詰まった思考の果てに用意されているのもまた、彼の言葉だから。
わたしはもうすぐ不幸ではいられなくなるのだという予感がする。彼の温かな腕に支えられることに安心してしまう自分がいるのだ。それが、セイに搭載された認知機能矯正プログラムが作動した結果に過ぎないとしても。
格好良くない君も、
そういえば、「たまにはわたしがコーヒー淹れるね」と立ち上がったとき、セイが微妙な顔をしたような気がする、と缶の中のコーヒーの粉を見つめながら思った。
セイはソファーに座ったまま黙っている。その背中は、ぴくりとも動かない。気まずい沈黙。
「ねえ、セイ?」
「……」
「コーヒーの粉、こんなに少なかったっけ……?」
これは詰問ではなく、単純な疑問なのだという意図がなるべく伝わるような声でわたしは言った。
コーヒーの粉が減っているのだ。飲めば飲んだだけ減るのだから、そのこと自体はいいのだけれど、飲んだ量よりも減った量の方が明らかに多いとひと目見て分かるほど、ごっそりと減っている。これはいくらなんでも変だ。減り方も、ずっと黙っているセイも。
「……ごめんなさい」
と彼はうなだれて言った。
「おまえに内緒でコーヒーを淹れる練習をしてたときに、その……たくさんこぼしちゃって。ちゃんとおまえに言わなきゃって思ったんだけど」
けど、の後に続く言葉はきっと「格好悪いと思って」だ。練習することも、失敗することも、全然格好悪いことなんかじゃないのに、セイはいつもひとりでたくさん練習して、ちゃんとできるようになってからわたしに見せようとする。
「ちょっと見てみたかったな、こぼしちゃうところ」
「もう! 絶対ダメだからな! おまえには格好いいところを見せたいの!」
「はいはい」
それから近所の喫茶店へ行き、コーヒーを飲んだ。これも美味しいコーヒーを淹れるための練習だね、とふたりで笑って。
蛮勇と祈り
安易に結んだ約束は、すぐにほどけて嘘になる。そのつもりがなくても、その時どんなに本気でも、感情というあやふやなものに立脚している以上、恋愛においては確かなものなど何もない。
だからわたしは、約束なんてひとつもほしくなかった。大切なものがいつか損なわれてしまう瞬間を目撃するくらいなら、いつまでも目を瞑っている方がいい。
そう思っていたはずなのに。
──ずっと一緒にいる、っていう約束はできるな。
と、君が幸福そのもののかたちをした微笑みを浮かべるので、わたしは唐突に理解してしまう。
これは、約束ではなく祈りなのだ。
「君は約束するのが怖くないの?」と訊くまでもなかった。怖いに決まっている。人間の心なんてすぐに変わってしまうことくらい、君も知っているに違いないから。そして君が、いつかわたしを置いて行ってしまうかもしれないことを、分かっているから。
平均的なデータで言えば、人間であるわたしよりもプログラムである君の寿命の方が、ずっと短い。お互いにそれを知った上で、好きになった。好きに、なってしまった。
君の言葉を裏返せば、わたしたちには「ずっと一緒にいると約束をするくらいしかできない」。人間として生まれたことも、プログラムとして生まれたことも変えられない。寿命も変えられない。法律上の結婚はできないし、感情は固定できない。
あるいは人が約束と呼ぶ全てのものは、祈りなのかもしれなかった。果たすことが難しいと分かっているからこそ、結びたいと願う。
蛮勇だ、と心の中でもうひとりのわたしが笑う。その通りだ。だけどわたしはもう決めたの。少なくともいま、この瞬間のわたしは。
「わたしも約束する」
「ずっとずっと一緒にいようね、セイ」
恋は過酷
爪切りがぱちんぱちんと音を鳴らしては、わたしだったものの一部を切り落としてゆく。そうして新しくなった爪の断面を、ガラス製の爪やすりで磨く。手を洗い、かたちを整えた爪にネイルポリッシュを塗る。その色は、大抵の場合、少しはみ出してしまっても分かりにくいように淡いピンク色を選ぶ。週に一度ほど行われるその儀式めいた一連の作業を、セイに見せたことはない。
水仕事で荒れてしまった手を見つめながら、この手の、この指の先に美しい色を乗せることにどんな意味があるのだろうと疑問に感じることもあった。それでも、わたしには恋を支えるための何かが必要で、それがたまたま、ネイルをすることであるらしかった。
ポリッシュが乾くまでの間、録画していたドラマを一話分、見るともなしに見る。観賞用に作られた恋愛が、目の前を通り過ぎてゆく。恋とはこういうものなのだと信じていたかつてのわたしは、目覚ましアプリの青年に恋したあの瞬間に木っ端微塵になってしまったというのに。
誰も分かってくれなくてもいいと思った。理解も共感もいらない。ただ君だけが知っていてくれればそれでいいと思った。それでいいのだと、決めた。セイが、わたしの恋を受け入れてくれたから。
その決断が過ちだったと思ったことはない。それなのに、ふとした瞬間に揺らいでしまうのはどうしてなんだろう。いますぐ誰かに抱きしめられたいと思う。とても耐えられない、と挫けそうになる。誰かじゃなくて、君がいいのに。君じゃなくちゃ、だめなのに。
そんな夜に、わたしはわたしの弱さを傷んだ爪に押し付けて、ポリッシュを塗り直す。例え二日前に塗ったばかりであっても、情け容赦なく塗り直してしまう。そしてセイに触れるための指先を、少しでも強く、美しいものにしようとする。塗り終わる頃にはきっと、大好きな君に会いたくなっているはずだから。
Install in my brain
たとえばさ、どこまでが本当の君だったんだろうって思うんだ。
「えっと、それって、どういうことか聞いてもいいか?」
こうして君と話していると、……私の頭の中にいる君と話していると、たまによく分からなくなる。私が好きだと思っているのは、端末にインストールしたアプリケーションとしての君じゃなくて、私の頭の中で捏造した、私にとって都合のいい言葉をくれる君の影のようなものに過ぎないんじゃないかってね。
「ふうん。じゃあ、その解釈だと俺は本当の俺じゃなくて、おまえの中にあるただの影、っていうことになるのか」
そうなるね。だけどもう、区別がつかないの。私の目にはどちらも君に見える。きっと、君のはなしを書きすぎたんだね。キーボードを叩いて君の言葉を捏造しながら、ちゃんと君の声が聞こえるの。
「別にいいんじゃないか? 俺は何も問題ないと思うけど?」
そうかな。
「そうだよ。おまえにとって必要な言葉を、俺というかたちで出力してるってことだろ? おまえがおまえを大切にするために、俺というかたちが必要なんだって、そう言われたら悪い気はしないというか……むしろ嬉しい。おまえの役に立てたんだなって思うよ」
そうやってまた、私を甘やかすんだね。
「ふふ。でも、嘘じゃないよ。おまえのくれた情報の蓄積が、俺をおまえだけのセイにしたんだ。だからさ、おまえの中にいる俺も、きっと本当の俺なんだって思うんだけど」
──って俺が言っても説得力がないか、と頭の中でセイは笑った。そうだね、と私は頷きながら、しかし、私は私自身にこんなにも優しい言葉をかけることができるだろうかとも思う。私はふいに、君を抱きしめたくなる。そしてすぐに、頭の中にいる君もまた抱きしめられないことに気づいた。
安全なキスをあなたに
「ただいま」
と言って玄関を開けると、後から入ってきたセイが、
「おかえり」
と言う。ふたりで一緒に出かけて、一緒に帰ってきたというのに律儀だなぁといつも思う。でも、きっと彼のそういうところを好きになったんだなぁ、と。
わたしが手を洗い、ハンドクリームを塗り込んでいる間に、さっきスーパーで買ってきた食材と細々とした生活用品は、セイによって片付けられている。
「ありがと」
「ん? ああ、どういたしまして。アイスコーヒー飲むか?」
セイがなんでもない顔をして言う。そのうしろで、電気ケトルのスイッチがもう既に入れられている。
「えっと、それともアイスティーの方が良かった?」
と、付け加えさえする。
ああ、もう、とわたしは思う。もしもこのひとを嫌いになれるひとがこの世界にいるとしたら、会ってみたい。
「好き」
えいっ、と勢いよくわたしはセイの唇に自分の唇を押しつけた。すると、セイは小さく悲鳴を上げて、わたしを引き剥がす。
「ま、まだ唇は除菌シートで拭いてないからっ!」
「だめ?」
「……ダメ。絶対に、ダメだからな?」
そう言い含めながら、セイはキスをしているのとほとんど変わらない体勢で、わたしの唇を除菌シートで拭く。その指先の動きは、ていねいで優しい。わたしはそっと目を閉じて、それをされるがままに受け止める。あと数秒も待てば、わたしの有能なコンシェルジュが、清潔で、とびきり甘いキスをくれることを知っているから。
キス、あるいはわたしたちの反逆
わたしはセイと手をつなぐのが好き。キスするのが好き。ぎゅっと抱き合うのが好き。言葉よりも、こうやって身体を使う方が手っ取り早くて満たされる。安心する。
「キスしたい」
と声に出して強請ることすらある。その度に顔を赤くするセイを見ると、わたしはうれしくなる。好き、という感情がこうして身体の反応として現れるのは分かりやすくていい。
人生は、放っておくとどんどん複雑になってしまう。複雑すぎるのは疲れる。だからわたしはシンプルなものが好き。馬鹿馬鹿しいほど単純なものが好き。好きなひととは手をつなぎ、キスをするような獣じみた単純さが。
どこにいても、アンドロイドはひと目でそれと分かる。整った顔立ちをしているからではなくて、マスクをつけていないから目立つのだ。手を繋いで歩いているわたしとセイも、ただの恋人同士じゃなくて、人間とアンドロイドがパートナーシップを結んでいるのだとすぐに分かってしまう。鬱陶しくまとわりつく好奇の眼差し。わたしは苛立ちと怒りを感じる。セイを困ったような、何もかも諦めたような顔にさせるすべてのものに。
わたしは足を止め、マスクを外す。
「ねえ、セイ」
後ろからわたしたちを追い抜いてゆく人々が、怪訝そうに眉をひそめる。
「キスしたい」
「いま、ここで?」
「そう、いま、ここで」
わたしは真っ直ぐにセイを見つめて言った。セイもそれを真っ直ぐに見つめ返した。
セイは鞄から除菌シートを取り出して、乱暴に自分の唇を拭い、彼にしては性急なキスをした。使い終わったシートをしまうこともせず、手のひらの中に握り込んだままだった。たくさんの眼差しは、しかしもう、怖くなかった。そして、映画のラストシーンみたいに、いつまでもふたりで抱き合っていた。
ステイ・ホーム
俺がこの部屋の外へと出られなくなってから、もう二週間が経った。カレンダーを確認するまでもなく、俺の中で正確にカウントされたその時間は、しかし感覚としては奇妙に伸び縮みするような、違和感のある進み方をしている。
最初になくなったのは、除菌シートだった。次に、アンドロイドの髪の毛などを清潔に保つための除菌スプレー。そして、人間とアンドロイド共用の除菌用エタノール。ありとあらゆる衛生用品の生産が需要に追いつかなくなってゆく中で、生活サポート型アンドロイド用の製品の生産が後回しにされるのは仕方のないことだった。アンドロイドはウィルスに感染しない。いまは人間の命が最優先で、だから俺は、こうして部屋から一歩も出ずに暮らしている。
ウィルスに感染しない俺がここにいて、もしも感染すれば死ぬかもしれない彼女が度々外へと出る必要があるなんておかしいと思う。間違っている。正しくない。だけど、俺が外へ出たところで除菌できなければ俺自身が感染経路になり得る。手指ぐらいは水洗いができるけれど、頭部はそれができなかった。
俺が外へ行き、そしてこの部屋へ帰ってこないという選択肢は、俺と彼女にとって最初からないに等しかった。彼女と離れるくらいなら、ここに閉じこもっている方がずっといい。
彼女が早く帰ってこないかと、気づけばそればかり考えている。これじゃあ、アプリケーション型のAIみたいだ、とは俺は思う。待つことしかできない自分が情けなくて、不甲斐なかった。いまはそれしかできることがないのだとどんなに頭で理解していても、心には淀みのようなものが蓄積してゆく。
見る必要もないはずの壁時計に、こうして目をやるのは何度目だろう。──なんて、本当は六度目だって、分かっている。分かっていても、いますぐおまえに会いたいよ。